「リレーコラム」34歳で初の世界選手権 ノルディックスキー距離女子の石垣寿美子

世界ノルディックの距離女子30キロフリーで力走する石垣寿美子(左)=ゼーフェルト(共同)

 高校生の頃に考えていたよりも、世界の舞台に出るのにずっと多くの時間がかかった。けれど、目指した場所にしっかりとたどり着いた。

 石垣寿美子(秋田ゼロックス)、34歳。ノルディックスキー距離の女子選手である。

 時計の針を2003年まで巻き戻そう。当時、秋田・十和田高3年だった石垣はホープだった。

 全国高校スキー大会の5キロクラシカルで3連覇。距離女子で史上初の偉業だった。

 10キロフリーも2年次から2連覇した。石垣は日本の将来を背負う選手になる。誰もがそう思うほどの強さだった。

 当時の記事によれば、06年トリノ冬季五輪を見据えて「五輪のプログラムに自分の名前が載れば」「早く“日本の石垣”になりたい」と発言していた。

 早くから世界を意識し、そこで戦う自分の姿を思い描いていた。

 しかし、そこからが長かった。日大を経て07年に自衛隊入り。11年には「地元・秋田から世界を目指したい」と秋田ゼロックスに移った。

 世界を目指して必死に練習を続けたが、なかなか手が届かない。ワールドカップ(W杯)は07年にリレーで1度だけ出場。その後は16年に個人で2度出るまで遠ざかった。W杯よりも出場が難しい五輪や世界選手権とは縁遠い競技生活だった。

 「スキーを始めたきっかけは、世界で活躍したいという思いがあったから。続けている限り、それを見失ってはいなかった」。こう言うが、簡単なことではない。

 主戦場はW杯下部のFIS杯。転戦したが、欧州の参加選手がほとんどいない日本開催を除けば惨敗続き。それでも諦めずに競技を続けてこられたのは、心の強さ以外の何物でもないだろう。

 そんな苦労人に今季はチャンスが訪れた。全日本スキー連盟が世界選手権への派遣基準を変更し、全日本選手権の上位者にも選出の可能性が与えられた。石垣は3位に食い込み、切符をつかみ取った。

 「4年に一度の五輪だったり、2年に一度の世界選手権が来るたびに、そこに出るっていう目標をずっと捨てずにやってきていた。でも、なかなかそれに手が届かなくて。(出場が)決まったときは『出られた!』っていう気持ちで、すごくうれしくて。そこに来るまでが長かったので、喜びの方がすごく大きかった」

 2月20日から3月3日までオーストリアで行われたノルディックスキー世界選手権。苦労の末にようやくたどり着いた場所だった。

 14位だった20キロリレーに加え、個人種目にも出場した。距離複合(15キロ)で52位、30キロフリーで45位。実力不足を痛感したが、格別だったと言う。初レースを終えた後、こんな表現で心境を教えてくれた。

 「スタート地点に立ったときは、『あー、これが世界の。あー』って感じでした。今まではテレビでしか見たことのない選手と同じスタートラインに立っていて。でも、いざそこに立ったら『私、この人と勝負するんだ。この人と一緒にレースするんだな』っていう何とも言えない不思議な感じだった。うれしさ半分、不思議さ半分、不安半分。何とも言えない気持ちでしたね」

 苦労してきた本人にしか分からない感覚だったに違いない。どれだけ時間がかかっても、遠回りしても、夢を諦めなければ、きっとかなう。光り輝く雪上で、それを実証したのだ。

 それでも、と石垣は言う。「十何年間の練習でも、まだまだ世界には通用しないんだなっていうのを改めて実感した。私は選手生活がもう長くはない。私がした苦い経験を若い子たちに伝えていくことが、仕事の一つでもあると思う」

 もちろん、「まだまだ自分の気持ちは切れていない。3年後の五輪、2年後の次の世界選手権は目指している」と力強く言う。

 経験を次世代に伝えながら、もう一度世界の舞台へ。ベテランスキーヤーの挑戦は続く。

柄谷 雅紀(からや・まさき)プロフィル

全国紙の社会部で事件・事故取材などを経て、2013年共同通信入社。翌年から大阪運動部でプロ野球、Jリーグなどをカバーし、16年から本社運動部でバレーボールやスキーを担当。平昌五輪では主にスキーを取材。筑波大時代は男子バレーボール部でプレー。大阪府出身。

© 一般社団法人共同通信社