「JJ」。「熟女」の略語である。この本には、自分が「JJ」の域に突入してから、いかに生きやすくなったかが、きわめて率直に並べられている。また、その逆もしかり。「美しさ」や「可愛げ」が暗黙のうちに求められていた頃が、女にとって、いかに生きづらかったか。
著者はまず、私たちが何の考えもなしに、当たり前のこととして受け入れてしまっている差別たちに光を当てる。「女の子」は「若く美しくあるべき」であるという無意識のうちの思い込み。「女は男のために若く美しくあろうとしている」という大誤解。それらをひとつひとつ撃ち落とし、彼女は颯爽と次の話題へと移る。
そんな彼女の考えの全体に流れているのは、「人は人、自分は自分」という大前提である。若く美しくあろうとして、メイクやボディケアに精を出すもよし。好きな男を射抜くために、ミニスカートを穿くもよし。しかし、その語尾に「べき」がついてしまうと、著者のセンサーが敏感に反応する。お前のプライベートな選択に他人を巻き込むな、と。
自分はこれまでどうだったろう、と、ふと思う。何らかの集団に属することなく、人生の長い時間をフリーライターとして生きてきた。早起きと、満員電車と、パンプスやハイヒールを強いられる人生だけは徹底的に避けてきた。おかげで昔から「若く美しくあらねば」とはあんまり思っていない。お風呂屋で知らないおばあちゃんに「赤ちゃん?」とにっこり聞かれる程度にお腹が張り出しているけれど、それを是が非でも引っ込めねばという強迫観念には無縁のまま今日に至る。
じゃあ、著者の言う、無意識の差別とも無縁だったかと聞かれたら、そうではなかったように思う。テレビや広告で巻き散らかされているそれらを、安易に享受してきた歴史がある。先ごろ問題となった、西武・そごうのパイ投げ広告だって、最初は「ふーん」ってなもんで見過ごしていたのだ。
著者は、ひとつひとつのことがらに、大いに怒る。憤る。けれど本書が残す後味は、決してどす黒くはない。著者が目指す着地点は「糾弾」ではないからだ。何かにとらわれて汲々としているすべての女たちに、「こっち側は楽しいよ!」を説く。ひとたび、強いられてきたものを手放したら、愉快な人生が待っていることを説く。そして、それを手放すことは、恥でも堕落でもなく、ただ「面白」なのだとも。最後に、本書で特に印象に残った一節をここに記したい。
「自分が進む道にウンコを並べていると、そのウンコで滑って転んで糞まみれになるのは自分だ」
自分の人生を「ウンコ」とするか「宝物」とするか。その選択権は、あなた自身にしかないのだ。
(幻冬舎文庫 600円+税)=小川志津子