レジェンドたちが遺したもの 星野仙一さん、衣笠祥雄さんを偲ぶ

大阪市内で開かれた星野仙一さんの「お別れの会」=3月28日

 平成最後の野球界。今年も数々のドラマ、名場面が生まれたが、それと同時に偉大なレジェンドたちが天国に旅立っていった。中でも印象深いのが星野仙一さんと衣笠祥雄さんの逝去だ。

彼らの現役時代に野球記者として取材現場にいた者にとっても時代の移り変わりを痛感する出来事だった。

 平成30年が始まったばかりの1月4日、膵臓がんのため70歳の生涯を閉じたのが星野仙一さん。当時の肩書は東北楽天球団副会長だった。

そのほんの1カ月ほど前に東京都内のホテルで行われた野球殿堂入りパーティー。椅子から立ち上がる時に苦しげな仕草が気になったが、まさか病状がそこまで深刻なものとは思わなかった。すでに4年近く前に発症していたにも関わらず、我々の前では椎間板ヘルニアで通していた。本当の病状はごく一部の人にしか明かしていない。これも彼のダンディズムだったのだろう。

 星野さんには二つの顔があった。「鬼の星野」と「情の星野」である。

「鬼」は、世間のイメージになっていく「闘将」であり「鉄拳制裁」。中日で全うした現役時代は燃える男と呼ばれた。

快速球で快刀乱麻の投球ではなかったが気迫を前面に出す、特に巨人相手になると形相が変わった。中日の監督になってからも鬼の指揮官を貫いた。

かつて巨人戦で乱闘になりかけたとき、相手の王貞治監督の胸ぐらをつかんだのは有名な武勇伝だが、当時の中日では乱闘要員としてベンチ入りしていた選手が実在した。

また、若手の正捕手候補だった中村武志などは連日のように鉄拳制裁を受けて、顔を腫らしながらマスクをかぶっていたという。ベンチの中であちらこちらを殴り、蹴飛ばす猛将の姿はテレビを通じて映し出されるからそのイメージばかりが定着していったが、もう一つの顔にこそ星野監督の本質があった。

 もっとも星野さんに愛のムチを振るわれた中村選手はその後、東北楽天のコーチとして迎え入れている。

選手やその家族の誕生日はすべて記録してバースデープレゼントを欠かさない。退団する選手の第二の人生まで面倒を見る。親分肌で細やかな心配りができるからこそ、選手たちは慕っていた。

明大時代の恩師である故島岡吉郎監督は応援団出身で野球は素人に近かった。それでも「人間力」の野球を唱え続けた。恩師譲りの人間力をバックボーンに戦い続けた白球人生だった。

 その星野さんが亡くなってからわずか3カ月後の4月23日に、またしても球界に衝撃が走った。「鉄人」衣笠祥雄さんが上行結腸がんのために死去、71歳は鉄人としてはあまりに早い他界だった。

 今でこそ、リーグ3連覇を成し遂げて王国を築いた広島だが、かつては最下位が定位置の弱小チームだった。

初優勝は1975年、赤ヘルブームを巻き起こし頂点に駆け上がる中心には山本浩二さんと衣笠さんの存在があった。

 衣笠さんと言えば2215試合連続試合出場の日本記録であり、その偉業が国民栄誉賞の受賞につながった。

スタートは1970年で終幕は現役引退の87年だから足掛け18年の皆勤賞である。その間に打撃不振に陥って、監督から休養を勧められたり、骨折や捻挫は何度も経験している。

中でも「鉄人」の名を決定づけたのが79年、巨人戦で西本聖投手から受けた死球だ。その場から担架で運ばれて受けた診断結果は左肩甲骨骨折。それでも翌日も代打で出場。江川卓投手から3球三振を喫しても、涼しい顔でベンチに戻ってきた。その後に発した名言はあまりに有名である。

 「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本君のために振った」

 骨折の翌日に出場してフルスイングするだけで驚きなのに、ぶつけた当事者である西本投手を思いやる。後に西本さんは「場合によっては自分の投手生命がおかしくなる事態なのに、衣笠さんのあの一言で救われた」と語っている。それが衣笠祥雄という男なのである。

 どこで会っても笑顔を絶やさず「元気にやってる?」と声を掛けてくれた。亡くなる数日前まで野球解説に全力投球、声はかすれて聞き取りにくかったが、最後まで野球人として走り抜いた。

 鉄拳制裁など御法度のご時世。「24時間働けますか?」の時代でもない。でも彼ら先輩には誰にも負けない信念と個性が光っていた。

平成の世は終幕を迎えてもレジェンドの遺産は残る。

荒川 和夫(あらかわ・かずお)プロフィル

 スポーツニッポン新聞社入社以来、巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)などの担当を歴任。編集局長、執行役員などを経て、現在はスポーツジャーナリストとして活躍中。

1987年6月、2131試合連続出場記録を達成し、ファンの声援に応える衣笠祥雄さん。引退後、指導者として再びユニホームを着ることはなかった

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