「村上春樹を読む」(84)猫と音楽の力 『海辺のカフカ』のナカタさんと星野青年

『海辺のカフカ』(上)(新潮文庫)

 前回のこのコラム「村上春樹を読む」では、村上春樹の初のラジオ出演「村上RADIO RUN&SONGS」(8月5日の日曜の夜、TOKYO FM)の放送にちなんで、村上春樹作品の中での音楽の意味について考えてみました。

 その「村上RADIO RUN&SONGS」の最後の言葉は「では今日はここまで。また、そのうちにお目にかかれるといいですね。さようなら」であることを紹介して、「これって、またDJを村上春樹がやるかもしれないということでしょうか……。そんなこともラジオを聴きながら考えました」と、コラムを結びました。

 そして、やはりその通りのようで「村上RADIO」の第2弾が10月21日夜、全国38局ネットで放送されるそうです。テーマは「秋の夜長は村上ソングスで」です。第1弾が好評で、村上春樹も「僕もなかなか楽しかったので、とりあえず二回目をやろうということになりました」ということ。どうやら、第3弾もあるみたいです。

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 今年に入ってから、オウム真理教信者の犯罪の問題と、村上春樹作品との関係を、ずっとこのコラムで考えてきました(連載途中の7月には、松本智津夫死刑囚=教祖名麻原彰晃=ら13人の死刑が2回に分けて執行されました)。

 前回は『スプートニクの恋人』(1999年)の中の音楽の意味と、オウム真理教信者による地下鉄サリン事件の関係について考えてみたのですが、村上春樹によるラジオDJ番組「村上RADIO」も続き、村上春樹が選んだ「秋の夜長」向きの音楽をかけるようですので、今回の「村上春樹を読む」も、別な作品で村上春樹にとっての音楽の意味について、続けて考えてみたいと思います。

 オウム真理教信者によるサリン事件と村上春樹作品と言えば、地下鉄サリン事件の被害者らへのインタビュー『アンダーグラウンド』(1997年)とオウム真理教元信者たちへのインタビュー『約束された場所で underground 2』(1998年)がありますが、長編小説の『海辺のカフカ』(2002年)を初めて読んだ時のことも忘れられません。

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 『海辺のカフカ』には「ナカタさん」という文字の読み書きができないが、猫と話せる初老の人物が登場します。そのナカタさんが、読み書きができない人となってしまった事件が、作品の冒頭近くに記されています。

 1944年11月7日の午前、山梨県のある町の国民学校の女性教師・岡持節子(当時26歳)に引率されて、4年乙組の男女合わせて16人の児童が野外学習として、山に入ります。実際は食べられる山菜を探すような行動でした。

 途中、米軍の飛行機らしきものを目撃し、その後、森に入ります。10分ほど登ったところで、森が開けた場所に出るのです。それは「お椀山」と呼ばれる森で、その学級では、「お椀山」に行くと、よくこの場所に行きました。

 そして、その広場で、キノコをとりだしてから、10分ほどした時、子どもたちが、地面に倒れ始めたのです。16人の子どもたちは全員倒れたままで、意識を失ってしまいます。でも大人である担任の岡持節子だけは倒れませんでした。

 急を知らせに戻った岡持節子と一緒に、医師の中沢重一が現場に駆けつけます。警察官や校長、教頭らも一緒です。現場に着くと、3、4人の子どもたちは、ふらふらと身体を起こして、四つん這いになってたりはしていましたが、でもまだ16人の子どもは倒れたままという状態だったのです。

 中沢医師の話では、毒キノコなどを食べた食中毒の症状はなく、症状としては日射病に似ていました。でも季節は11月なのです。

 「あと考えつくのは、ガスです。毒ガス、おそらく神経ガスみたいなもの。天然のものか、あるいは人工のものか……。どうしてこんな人里離れた森の中にガスが発生したりするのかと訊(き)かれても、わかりません」と話しています。

 さらに続けて「しかし仮にそれが毒ガスであれば、このような現象は論理的に説明がつきます。みんなが空気と一緒にそれを吸い込んで、意識をうしなって倒れてしまった。担任の先生だけが大丈夫だったのは、濃度が薄くて、大人の身体はたまたまそれに対抗できたからだというわけです」と中村医師は加えています。

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 多くの読者が、この場面を読みながら、地下鉄サリン事件、またその前の松本サリン事件のことを思いました。

 岡持節子教師、中村重一医師の証言は、戦後の1946年5月12日にアメリカ陸軍情報部が作成した面接インタビューの報告書の形をとって、作中に記されています。アメリカ国防省の極秘資料でしたが、情報公開法で1986年に公開されたと、同作にあります。

 中村医師に対して、米軍側が「ガス説についてはその場で誰か口にされましたか?」と質問しています。それ対して「たしか教頭先生だったと思いますが、これは米軍がまいたんじゃないかと言いました。毒ガス爆弾を落としていったのではないか」と答えています。

 すると、担任の岡持節子が「そういえば山に入る前にB29らしい機影を空に見た」などと話したというのです。

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 そして、子どもたちは少しずつ自然に回復していったのですが、その中でひとりだけ、どうしても意識を回復できなかった男の子がいたのです。「ナカタサトル」という東京から疎開してきた子どもでした。つまり、のちの「ナカタさん」です。

 『海辺のカフカ』という長編は、その「ナカタさん」が活躍する物語です。『海辺のカフカ』は登場人物たちが四国・高松に結集する物語ですが、自分の父親を殺したかとも思われる主人公の「僕」は15歳の誕生日に家を出て、夜行バスで高松に向かいます。『海辺のカフカ』は、その「僕」の父親殺しの話で、よく論じられますが、オウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件や松本サリン事件のことから、この作品を考えてみますと、もう一方の「ナカタさん」の物語も、とても大切な問題を含んでいると思います。

 『海辺のカフカ』は、その15歳の「僕」の物語と、もう一つ「ナカタさん」と彼が東名高速道路の富士川サービスエリアで出会ったトラック運転手の「星野青年」のコンビの物語が、交互に展開していく長編です。

 最初に記したように、もう1度、村上春樹作品の中の音楽の意味について、考えてみたいのですが、紹介したいのは、「ナカタさん」のほうではなく、「ナカタさん」とコンビを組む「星野青年」と音楽の話です。

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 『1Q84』(2009年―2010年)の中で、激しい雷雨の夜に、女主人公の「青豆」が、オウム真理教の麻原彰晃をも思わせるようなカルト宗教のリーダーと対決して、殺害する有名な場面があります。

 そして『海辺のカフカ』にも、激しい雷雨の夜が書かれています。高松に着いた星野青年がナカタさんに頼まれて、「入り口の石」というものを持ち上げて「入り口」を開ける場面です。石は限りなく重たくなっているのですが、自衛隊にいた時には、部隊の腕相撲大会で準優勝したという怪力の星野青年が持ち上げるのです。その場面にはこんなことが書かれています。

 「そのとき何本もの不揃いな白い光の線が、続けざまに空を裂いた。一連の雷鳴が大地を芯から揺るがした。まるで誰かが地獄の蓋を開けたみたいだな、と星野青年は思った」

 おそらく、激しい雷は、村上春樹作品の神話的な世界の始まりを表しているのでしょう。「入り口の石」が持ち上げられて、「入り口」が開くと、その後、「僕」が「森」の中に入っていく展開になっています。

 そして星野青年のほうは「でもさ、ナカタさん、あれだけ苦労して重い石をひっくり返して、<入り口>を開けたってえのに、結局のところとくべつなことは何も起こらなかったね」「雷とかばんばん鳴って、道具立ては派手だっただけに、なんとなくあっけねえ感じがするよ」と話しています。

 でも、「僕」が「深い森」の中に入っていったように、「星野青年」も大切な世界に入っていくのです。

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 「彼は急にコーヒーが飲みたく」なって、商店街から少し引っ込んだところにある古風な喫茶店の中に入っていきます。

 その喫茶店で、コーヒーのおかわりをすると、白髪の店主が「音楽はお耳ざわりではありませんか?」と訊ねます。「音楽?」「ああ、とてもいい音楽だ。耳ざわりなんかじゃないよ、ぜんぜん。誰が演奏しているの?」と応えると、「ルービンシュタイン=ハイフェツ=フォイアマンのトリオです。当時は『百万ドル・トリオ』と呼ばれました。まさに名人芸です。1941年という古い録音ですが、輝きが褪(あ)せません」と店主が話します。曲はベートーヴェンの『大公トリオ』です。

 そして「いや、俺はこれでいいと思う」「なんというか――優しい感じがする」という星野青年は語っています。

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 星野青年は店を出る時に「これなんていう音楽だっけね? さっき聞いたけど忘れちまったよ」と質問。店主が「ベートーヴェンの『大公トリオ』です」と答えますが、「太鼓トリオ?」と訊き返しています。星野青年の音楽に対する知識はそのようなものでした。

 でも星野青年は、翌日、映画を観たあと、また同じ喫茶店に行っています。今度はハイドンを聴き、店主からハイドンについて教えてもらい、その後、ルービンシュタイン=ハイフェツ=フォイアマンのトリオが演奏する『大公トリオ』を聴かせてもらうのです。

 ついに星野青年はCDショップで、廉価版の『大公トリオ』を購入してしまいます。そして星野青年は、買ってきた『大公トリオ』を聴いて過ごします。それは『百万ドル・トリオ』のものではありませんが、「その深く美しい旋律は彼の胸に染(し)みこみ、フーガの精緻な絡みは心をかきたてた」と村上春樹は書いています。さらに星野青年について、村上春樹は、こう加えています。

 「1週間前だったら、俺はこんな音楽を聴いても、たぶんただの一切れも理解できなかっただろう、と青年は思った。理解しようという気持ちにだってなれなかっただろう。しかしふとした巡り合わせでたまたまあの小さな喫茶店に入って、座り心地のいいソファに座ってうまいコーヒーを飲み、おかげでこの音楽を自然に受け入れることができるようになった。それは彼にとってずいぶん意味のある出来事みたいに思えた」

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 この『海辺のカフカ』という作品が、それまでの村上春樹の作品世界を広げているのは、物語世界が2階建てで書かれていることだと思います。村上春樹は2つの異なる話を並行して進めていくスタイルの作品が好きでした。例えば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)では開放系の「ハードボイルド・ワンダーランド」の話と閉鎖系の「世界の終り」が交互に進んで行きますし、『ノルウェイの森』(1987年)は、死の世界を象徴するような直子という女性と、生の世界を象徴するような緑の世界を「僕」が往還する話です。でも、それらの世界は2つに分かれていて、僕は往還できても、直子と緑は出会えないようになってしました。

 『海辺のカフカ』も基本的に「僕」の世界の話と、「ナカタさん」「星野青年」のコンビの話が、交互に展開していくのですが、この物語では「ナカタさん」「星野青年」のコンビが「僕」がいる甲村記念図書館に侵入していくことができる物語になっています。これは、それまでになかった村上春樹の物語の形です。

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 その甲村記念図書館を訪れた星野青年は、図書館の大島さんという人に「あんたは音楽に詳しいんだね?」と聞いています。

 「ひとつ訊きたいんだけれどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う? つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中のある何かが、がらっと大きくかわっちまう、みたいな」

 そんな質問に、大島さんは「もちろん」と答えて、さらに「化学作用のようなものですね。そしてあのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります」と大島さんは答えています。

 音楽の力が、星野青年の中にどんどん入ってくるのですが、さらに、章が進んで、星野青年は居間で『大公トリオ』のCDをかけ、最初の楽章の主題を聴いていると、「両方の目から涙が自然にこぼれ落ちてきた。とてもたくさんの涙だった。やれやれ、この前に俺が泣いたのはいつのことだっけな、と星野さんは思った」と書かれています。

 何度か指摘していますが、村上春樹作品で、主人公たちが涙する時はとても重要な場面です。その人物が涙する時、泣く時、その人は、村上春樹作品の中で、成長しているのです。つまり、たくさんの涙を流して、泣きながら音楽を聴いている星野青年は、この時、成長しています。

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 星野青年とナカタさんのコンビが、四国入りして、最初の夜を、徳島の旅館に泊まる場面が『海辺のカフカ』の中にあります。

 その夜、星野青年が自分のこれまでの人生を振り返って、次のようなことを考えています。彼の高校時代は気持ちがすさんで、荒れていました。でも警察の厄介になっても、決まって「じいちゃん」が迎えに来てくれました。「もしじいちゃんがいなかったら、俺はいったいどうなっていただろうなと彼はときどき思う」のです。「じいちゃんだけは少なくとも彼がそこに生きていることをちゃんと覚えていてくれたし、気にかけてくれていたもんな」と思うのです。

 そして、星野青年が、コンビを組むナカタさんに興味を持ったのは、ナカタさんの風貌やしゃべり方が、死んだ彼の「じいちゃん」に似ていたからだったそうです。

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 この星野青年の人生と音楽の関係を考えてみますと、私は、いつも『スプートニクの恋人』(1999年)で、突然白髪になってしまう「ミュウ」の音楽体験と、真逆な姿を感じるのです。

 前回の「村上春樹を読む」で紹介しましたが、ミュウにはボーイフレンドもたくさんいましたが、誰かを心から愛したことは一度もなく「とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道をすることなんて考えもしなかった」という生き方の人でした。

 ですから「たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。わたしは、いろんなことがうまくいかなくて困ったり、立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考えた。不平をよく口にする人たちを、基本的には怠けものだと考えた。当時のわたしの人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた」という人です。

 ミュウはそのような人生を生きてきたのです。そして、ミュウは偶然、閉じ込められた観覧車の中から、自分の分身の姿を見て、白髪になってしまうのです。

 なぜなら、音楽というものは、そんなように効率的に、余分なものをすべて棄てて、脇目もふらず、その道だけを目指していくものではないという村上春樹の考えが、『スプートニクの恋人』のミュウの体験を通して書かれているのだと思います。そんなことを前回のこのコラムで記しました。

 ミュウは白髪となって以後、二度と鍵盤に手を触れませんし「音楽を作り出すための力が、彼女からはすでに失われて」います。

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 おそらく『スプートニクの恋人』のミュウと、対極的な存在として『海辺のカフカ』の星野青年はあるのでしょう。星野青年は高校時代に警察の厄介になったり、自衛隊に入って、その後、いまトラック運転手をしているわけですが、その人生は効率的なものではありません。真っ直ぐな人生ではありません。寄り道の多い、曲がりくねった人生と言えると思います。

 でも、そんな星野青年が、音楽に触れることによって、成長して、涙を流す人間になっているのです。涙すること、泣くこととは、ミュウには欠けていた「温かい心の広がり」が、あるということでしょう。

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 ナカタさんが、死んだ後、部屋にある石を相手に話しかけながら、星野青年はこれまで関係した女性たちのことを、思い出していきます。

 そして食事の後、また星野青年は『大公トリオ』を聴きます。「よう、石くん」と星野青年は石に話し、「どうだい、素敵な音楽じゃないか。聴いていると心が広がっていくような気がしねえかい?」と語りかけます。

 さらに「俺はずいぶんこれまでひでえことをしてきた。身勝手なことをしてきた。それは今更ちゃらにはできない。そうだよな? でもこの音楽をじっと聴いているとだね。ベートーヴェンが俺に向かってこう話しかけているみたいな気がするんだ」と話します。

 それは次のようなベートーヴェンの星野青年への語りかけです。

 <よう、ホシノちゃん、それはそれとして、まあいいじゃんか。人生そういうことだってあるわな。俺だってこう見えてけっこうひでえことして生きてきたんだ。しょうがねえよ、そういうのってさ。成りゆきってもんがあるんだ。だからさ、これからまたがんばりゃいいじゃん>

 とベートーヴェンが言うのです。正確には、ベートーヴェンがそう言っているように星野青年には伝わってくるのですが。

 「そういう感じってしないか?」と話しかけても、石は黙っていて、応えません。「まあ、いいや」と星野青年は言って、また音楽を聴くのです。

 その日の午後、窓の外を見ると、太った黒猫がいるので、退屈しのぎに猫に「よう、猫くん。今日はいい天気だな」と言うと、「そうだね、ホシノちゃん」と猫は返事をかえしたのです。星野青年は猫と話せるようになっていたのです。

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 つまり音楽の力によって、甲村記念図書館の大島さんが言っていたように、星野青年の世界は「すべての目盛りが一段階上にあがって」「自分の世界がひとまわり広がって」いたのです。

 音楽の力によって、自分の世界が広がり、ナカタさんのように、猫と話せるようになっていたのです。逆に言うと、猫と話せることは、星野青年に訪れた、心の広がりの象徴なのだと思います。(ただし、物語の途中で、ナカタさんは、ジョニー・ウォーカーと闘って、ジョニー・ウォーカーの胸を刺して以来、猫と話す能力を失っていますが……)

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 さて、星野青年が、音楽を聴くことによって、自分の世界が広がって、そのように猫と話せる力が身についたことの関係で、重要なことが、『海辺のカフカ』の前半部に書かれています。それを紹介しましょう。意識不明となった小学生のナカタさんが意識を取り戻す場面です。

 「聴きなれた音楽を聴かせ、教科書を耳元で読み上げました。好きな料理の匂いを嗅がせました。家で飼っていた猫も連れてきました。その少年が可愛がっていた猫でした。彼をこちらの現実の世界に呼び戻そうと、とにかく手を尽くしました」とあります。

 そして、2週間後、周囲が万策つきたと思っていたころに「その少年はとつぜん覚醒したのです」。

 ここで、重要なのは「聴きなれた音楽」と「可愛がっていた」猫でしょう。つまり、毒ガスの被害が疑われたりしたナカタさんは、音楽と猫の力などで意識が回復した人です。ここに、音楽の力によって、自分の世界を広げて、猫と話せるようになる星野青年とのコンビが予告されているように、私は感じます。

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 星野青年が、四国に入って初めての夜、徳島の旅館で自分を振り返る時、「もしじいちゃんがいなかったら、俺はいったいどうなっていただろうな」と思いました。

 ナカタさんも小学校を卒業すると母親の実家である長野の親戚に預けられて、祖父母に育てられました。ナカタさんは、その祖父母に可愛がられたようです。

 そして「猫と話ができるようになったのも、このころのことだ」と『海辺のカフカ』にあります。「猫たちは自然や世の中についてのさまざまな事実をナカタさんに教えてくれた。実際の話、世界の成りたちについての基礎的知識のほとんどは猫から学んだようなものだった」そうです。

 ある日、毒ガスだか、そのようなものが疑われるものの被害にあって、意識を失い、文字が読めなくなってしまったナカタさん。彼は猫や音楽などの力で、意識を回復するのです。祖父母に可愛がられて、猫と話せるようになって、世界の成りたちを知りました。

 やはり「じいちゃん」の力で、なんとか、ここまで生きてきた星野青年が、音楽の力で自分を広げて、猫と話せるようになっています。いいコンビですね。

 『海辺のカフカ』の中のナカタさんと星野青年の物語はそのような関係になっています。効率を追求する生き方とは違うものの力として、音楽と猫が描かれていると思います。

 『海辺のカフカ』が、それまでの村上春樹の作品世界を広げているのは、物語世界が2階建てで書かれていることです。その物語でコンビを組むナカタさんと、星野青年の2人も、2階建てになっている人物のように感じました。この物語は、子どもたちが突然、意識を失って倒れていく場面が、オウム真理教信者によるサリン事件を思わせる始まりでした。そのことは、星野青年が音楽の力によって、猫と話せるようになることにまで、繋がっている物語なのだと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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