「村上春樹を読む」(83)効率優先社会に対抗する「音楽」の力 『スプートニクの恋人』のミュウの体験

「スプートニクの恋人」(講談社文庫)

 たくさんの方が聴いたと思いますが、村上春樹の初のラジオ出演「村上RADIO RUN&SONGS」が8月5日(日曜)の午後7時から55分間、TOKYO FMで放送されました。村上春樹の語りのテンポもよく、楽しかったですね。

 ジョギングするときにいつもiPodで音楽を聴いていて、1000~2000曲入ったものを7台ぐらい持っているという村上春樹が、そのラインナップの中から、自ら選んで曲をかけながら、話をし、リスナーの質問にも答えるという初DJでした。

 ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンがディズニーの曲をカバーしたものなども最初のほうにありました。ディズニーランドの「カリブの海賊」のテーマ曲「Yo Ho」や『白雪姫』の中の「Heigh-Ho」などを合わせた曲です。

 『白雪姫』の「ハイホー!」といえば、『海辺のカフカ』(2002年)には猫殺しのジョニー・ウォーカーが口笛で吹く曲として、印象的ですね。「彼が口笛で吹いているのは、ディズニー映画の『白雪姫』の中の7人のこびとたちが歌う『ハイホー!』だった」とありますし、ジョニー・ウォーカーは、その「ハイホー!」を口笛で吹きながら、猫の首を鋸(のこぎり)で切っています。

 さらに『1Q84』(2009年―2010年)でも『白雪姫』のことが出てきました。『1Q84』の中に『空気さなぎ』という小説のことが書かれているのですが、その語り手の10歳の少女は山中の特殊なコミューンで、一匹の盲目の山羊の世話をしています。でも彼女が目を離したあいだに山羊が死んでしまい、「反省のための部屋」である土蔵の中に死んだ山羊と一緒に、少女は閉じ込められてしまいます。

 そして3日目の夜に、山羊の口が大きく開いて、その中から小さな人々がぞろぞろと出てきます。全部で6人。せいぜい60センチぐらいです。自分たちは「リトル・ピープル」だ言います。そして少女は『白雪姫と七人のコビトたち』みたいだと思うのです。

 すると「もし七人がいいのなら、七人にすることもできる」と言って、彼らは七人になるのです。そのリトル・ピープルは、はやし役のリトル・ピープルが「ほうほう」とはやすと、残りの6人が「ほうほう」と声をあわせるというコビトたちです。ですから、リトル・ピープルの「ほうほう」には『白雪姫』の7人のこびとたちが歌う『ハイホー!』が、きっと意識されているのでしょう。

 「村上RADIO RUN&SONGS」では、もちろん村上春樹が好きな曲を次々にかけていったのでしょうが、自然な選曲であるとともに、村上春樹作品との関連も考えて、選ばれた曲もあるのかように感じました。

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 さて、ここ半年ほど、この「村上春樹を読む」では、オウム真理教信者による事件に、どんな問題が含まれていたのかを考えながら書いてきました。今年、1月に一連のオウム真理教信者による事件の裁判が終わり、それを機会にもう一度、オウム真理教の問題に触れた村上春樹作品を読み返しながら、オウム真理教信者の犯罪とは何だったのかを自分なりに考えてみたいと思ったからです。

 3月には死刑囚7人が東京拘置所から名古屋、大阪両拘置所など5カ所に移送となり、そして7月6日に松本智津夫死刑囚=教祖名麻原彰晃=ら7人の刑が執行され、前回の「村上春樹を読む」を掲載した同月26日に、残る6人の死刑が執行されました。

 でも、オウム真理教信者たちがもたらした問題は、その死刑執行で終わったというわけではありませんので、今回もその問題について、少し考えてみたいと思います。

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 「村上RADIO RUN&SONGS」での村上春樹のDJのことから、このコラムを書き出しましたので、今回の「村上春樹を読む」では、オウム真理教信者と音楽、村上春樹作品の中で、音楽が果たす役割ということを考えてみたいと思います。

 村上春樹がオウム真理教信者と音楽の関係について語っている言葉が『約束された場所で』(1998年)の中にあります。『約束された場所で』はオウム真理教元信者たちへのインタビュー集ですが、その巻末には臨床心理学者の河合隼雄さんと村上春樹の2つの対話が付されていて、このうちの「『悪』を抱えて生きる」という対話の中で村上春樹が次のように話しています。ちょっと長いですが、そのまま引用してみましょう。

 「僕はオウムの音楽を聴いていて、それをすごく強く感じました。聴いていて、どこがいいのかぜんぜんわからないんです。ほんとの良い音楽というのはいろんな陰がありますよね。哀しみや喜びの陰みたいなのが。ところがオウムの音楽にはそれがまったく感じとれないんです。ただ小さな箱の中で鳴っているみたいです。単調で、奥行きがなくて、そういう意味ではメスメライジング(催眠的)と言ってもいいのかもしれないけれど。でもオウムの人たちはそれが素晴らしい音楽だと思っているんです。だから僕にも聴かせてくれる。僕は音楽というのは人間の心理ともっとも密接に結びついているものだと思っているので、これはなんかちょっと怖いと感じることがありました」

 この言葉の最初のほうにある「それをすごく強く感じました」というのは、その前に河合隼雄さんのこんな発言を受けているからです。それも引用してみましょう。

 「この人たちが言うとるようなのと似たことは、若い人たちはみんな多かれ少なかれ考えてると思うんです。なんのために生きているかとか、こんなことをしてても仕方ないんじゃないかとか、いろいろと真剣に考えてはいるんだけれど、そこには今言ったような自然な感情が流れたり、全体的なバランスの感覚が働いたりして、その中で自分をつくっていくわけです。ところがオウムの人たちはそこのところが切れてしまっているから、すっとそのままあっちにいってしまうんです。だから気の毒といえば、本当に気の毒なんです」

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 その河合隼雄さんの言葉を受けた村上春樹の言葉の中に「ただ小さな箱の中で鳴っているみたいです」という発言もありますが、それは、この対話の前段で、次のような村上春樹の発言があるからです。これも長い引用となりますが、でもオウム真理教の人たちの問題を村上春樹がどのように考えたを知る上で大切な発言ですので、紹介しておきましょう。それも音楽のことと関係しています。

 「話をしていても、宗教的な話になると、彼らの言葉には広がりというものがないんです。それでね、僕はなんでだろう、なんでだろうと、それについてずっと考えていたんです。それで結局思ったんですが、僕らは世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって、またその箱の中に箱があって……というやつですね。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。そのような理解が我々の世界に陰を与え、深みを与えているわけです。音楽で言えば倍音のようなものを与えている。ところがオウムの人たちは、口では『別な世界』を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平板なんです。あるところで広がりが止まってしまっている。箱ひとつ分でしか世界を見ていないところがあります」

 そんなふうに、オウム真理教信者たちの「箱ひとつ分」でしか見ていない世界と、私たちの「箱の中に箱があって、またその箱の中に箱があって」という世界の理解について、「音楽」や「倍音」について、語ることで、村上春樹は考えているのです。

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 『ノルウェイの森』(1987年)『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)『国境の南、太陽の西』(1992年)『アフターダーク』(2004年)など、音楽の曲名からタイトルがつけられた村上春樹作品はとても多くあります。最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』(1983年)も、阪神大震災に関係した連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)も音楽がタイトルです。これらのことから、村上春樹にとって、音楽というものが、非常に重要なものであることがよくわかります。

 そして、音楽が村上春樹作品の中で、どのような意味を持っているのか、そのことを考えるのに一番わかりやすい例は、『スプートニクの恋人』(1999年)の「ミュウ」という女性の体験と同作の語り手である「ぼく」の体験ではないかと、私は考えています。

 その『スプートニクの恋人』という長編小説には、職業的作家を目指している「すみれ」という女性と、「すみれ」に恋している「ぼく」と、「すみれ」が22歳の春に恋に落ちてしまう同性の「ミュウ」が主な人物として登場します。

 「ミュウ」は国籍からいえば韓国人でしたが、20代の半ばに決心して学習するまで、韓国語はほとんど一言も話せなかったという人です。日本で生まれ育ち、フランスの音楽院に留学したせいで、日本語のほかにフランス語と英語を流暢(りゅうちょう)に話しました。いつも見事に洗練された身なりをして、小さく高価な装身具をさりげなく身につけ、12気筒の濃紺のジャガーに乗っていました。

 その「ミュウ」は髪が白髪です。14年前に髪が一本残らず真っ白になってしまったのです。この体験を「すみれ」に語ります。

 それによると、「ミュウ」は25歳の夏、スイスのフランス国境に近い小さな町で一人暮らします。普段はパリに住んでピアノの勉強をしていますが、父親に頼まれてある商談をまとめるためでした。近くの村では、音楽祭が開かれていて、その音楽祭にも通います。

 そして、彼女の部屋の窓から町外れにある遊園地が見え、遊園地には大きな観覧車があります。

 ある時「ミュウ」は遊園地に行って、その観覧車に乗るのです。もうそろそろ終わりの時間で観覧車の乗客は彼女一人だけのようでした。持っていた双眼鏡で自分のアパートメントを探していたりしているのですが、ところが、「ミュウ」は観覧車の中に閉じ込められてしまいました。どうやら係員の老人が彼女が乗っていることを忘れて、観覧車を止めて帰ってしまったのです。

 そして観覧車に閉じこめられたミュウが、持っていた双眼鏡で自分のアパートを見ると、そこではミュウ自身が、町で知り合いとなったフェルディナンドというラテン系の男と交わっているのです。

 しかも、その「ミュウ」の姿は中世のある種の寓意画のようにグロテスクに誇張され、悪意に満ちて感じられました。「それはわたしを汚すことだけを目的として行われている意味もなく淫らな行為だった」と村上春樹は書いています。

 いわゆるドッペルゲンガーと呼ばれる「分身」ですが、その「自分の分身」の姿を見て、激しいショックを受けたミュウは失神しまいます。気がつくとミュウは病院のベッドに横になっていて、そして、しばらくして洗面所で顔を洗おうとして、鏡の中の自分の顔に目をやると「髪が一本残らず白くなっていた」のです。

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 この「ミュウ」が、一夜にして白髪となってしまうという謎の体験は、いったいどんなことを意味しているのでしょうか。そのことを村上春樹作品の中での音楽との関係で考えてみたことがありますので、それを述べてみたいと思います。

 その白髪となって以後、夏休みが終わっても「ミュウ」は大学には戻りませんでした。留学を打ち切って、そのまま日本に戻ってきますが、二度と鍵盤に手を触れないのです。「音楽を作り出すための力が、彼女からはすでに失われている」と書かれています。なぜ、音楽を作り出す力が「ミュウ」から失われてしまったのでしょうか。

 彼女はフランスに留学して、1年ばかりたった頃、不思議なことに気がつきました。「わたしより明らかにテクニックが劣っていて、わたしほど努力しない人たちが、わたしより深く聴衆の心を動かしている」のです。「音楽コンクールに出ても、わたしは最後の段階でそういう人たちに打ちまかされ」てしまうのです。

 そんな「ミュウ」がどんな人生を送ってきたのかというと、彼女にはボーイフレンドもたくさんいましたが、誰かを心から愛したことは一度もなく、「とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道をすることなんて考えもしなかった」という生き方でした。

 このため「たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。わたしは、いろんなことがうまくいかなくて困ったり、立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考えた。不平をよく口にする人たちを、基本的には怠けものだと考えた。当時のわたしの人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた」と「ミュウ」は「すみれ」に話したようです。

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 このコラム「村上春樹を読む」の中で、一貫して述べていることですが、村上春樹の文学は<効率を求めて、一つの考えに収斂して、それぞれが異なる個々人の存在を許さなくなっている「効率最優先社会」というものに対する、強い否(いな)の心>で、ずっと書かれていると、私は考えています。そのような視点から、村上春樹の文学を読んでみることが大切だと思っているのです。

 ここで、オウム真理教信者の世界に戻って考えてみますと、「オウムの人たちは、口では『別な世界』を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平板なんです」と村上春樹は話していました。

 そのオウム真理教信者の「奇妙に単一で平板」な世界と、「ミュウ」の「とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道をすることなんて考えししなかった」という生き方には、共通するものがあります。それは、一つの価値観に身をすべて預けて、生きる世界です。オウム真理教の信者は教祖・麻原彰晃に身を預け、「ミュウ」は「一流のピアニスト」になることだけに身を預けています。そこにある効率性に対して、意識的であるか、それほど意識的でないかの差があるかもしれませんが。

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 『スプートニクの恋人』の「ミュウ」について、村上春樹は「町の遊園地で、一晩観覧車の中に閉じこめられ、双眼鏡で自分の部屋の中にいるもう一人の自己の姿を見る。ドッペルゲンガーだ。そしてその体験はミュウという人間を破壊してしまう(あるいはその破壊性を顕在化する)」と書いています。つまり「ミュウ」の中の既に潜在的にあった「破壊性」を顕(あら)わにしたのが、観覧車の晩の出来事だったというのです。

 「ほんとの良い音楽というのはいろんな陰があり」「哀しみや喜びの陰みたいなのが」があるものであり、「箱の中に箱があって、またその箱の中に箱があって……」というような世界から生まれるものなのです。

 「僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解」していて、そのような理解が「我々の世界に陰を与え、深みを与えているわけです」。それが「音楽で言えば倍音のようなものを与えている」と村上春樹は語っていました。

 でも「ミュウ」は音楽家を目指しながら「とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道をすることなんて考えもしなかった」という、効率性第一の人生を歩んできました。それは、音楽家にとっては破壊的な生き方なのです。

 これが「双眼鏡で自分の部屋の中にいるもう一人の自己の姿」を見た体験によって、「ミュウという人間を破壊してしまう(あるいはその破壊性を顕在化する)」ということの意味でしょう。「ミュウ」が一夜にして白髪となってしまうことの理由なのだと思います。

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 さて、この「ミュウ」の体験とは、対極的な「ぼく」の体験が、このあとの『スプートニクの恋人』には書かれています。

 ここに紹介してきた「ミュウ」の話は、「ミュウ」と一緒に行動していた「すみれ」が文書で書き残したものでした。その「すみれ」が、ギリシャで行方不明となってしまい、「すみれ」を捜しに「ぼく」がギリシャまできて、「すみれ」の残したフロッピー・ディスクにあった文章で知るのです。

 そして「すみれ」が残した文書を読んだ後、ギリシャのコテージで眠りに落ちた「ぼく」が、深夜(午前1時過ぎのようです)、音楽の音で目覚めるのです。その音楽に導かれて、外気の中に立つと、音楽の響きは家の中にいたときよりさらにくっきりと聞こえてきます。

 音楽の「その音には、生の楽器特有の鋭角的で不揃いな響きがあった。スピーカーから流されているできあいの音楽ではない」と村上春樹は書いています。

 さらに「夏の夜は心地よく、そして神秘的な深みを持っていた。すみれの失踪という心にかかることがなかったら、ぼくはきっとそこに祝祭性をさえ感じていたことだろう」とも書いているのです。

 この言葉の横に、紹介した『約束された場所で』の中の「僕らは世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって、またその箱の中に箱があって……というやつですね。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。そのような理解が我々の世界に陰を与え、深みを与えているわけです。音楽で言えば倍音のようなものを与えている」という村上春樹の言葉を置いてみれば、よくわかりますが、「祝祭性」を感じさせる音楽には「不揃いな響き」があるのです。

 ミュウのように「まわり道や寄り道をすること」もない、たった一つの価値観から効率的に作られていく音楽は均質で、「不揃いな響き」の無いものなのでしょう。その効率的で均質な音楽には「倍音」も無く、それは村上春樹にとって「音楽ではない」のです。

 つまり、村上春樹にとって、「音楽」とは「効率追求社会」と闘う力なのです。

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 効率追求社会への強い否(いな)の心は、デビュー直後から、村上春樹作品の中を貫く姿勢です。

 でも、この半年ほど、地下鉄サリン事件など、オウム真理教信者による事件との関係を考えながら村上春樹作品を読み返すうちに、『スプートニクの恋人』という作品の「ミュウ」の体験に、オウム真理教信者の考え方の反映をさらに受け取ることがありました。そのことを、今回の「村上春樹を読む」の最後に記してみたいと思います。

 『スプートニクの恋人』は、1999年の作品です。今回紹介した河合隼雄さんとの対話も収録されたオウム真理教元信者たちへのインタビュー集『約束された場所で』は1998年の刊行で、その翌年に刊行された長編作品が『スプートニクの恋人』です。

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 考えてみると『スプートニクの恋人』の「ミュウ」が、観覧車から双眼鏡で「自分の分身」を見て、白髪となってしまうことも謎ですが、その前に、観覧車の中に「ミュウ」が1人閉じ込められるということも謎ですね。つまり「ミュウ」が閉じ込められた観覧車とは何を意味しているのでしょう。

 村上春樹は、オウム真理教信者が好きな音楽について「ただ小さな箱の中で鳴っているみたいです」と語っていました。さらに「オウムの人たちは、口では『別な世界』を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平板なんです。あるところで広がりが止まってしまっている。箱ひとつ分でしか世界を見ていないところがあります」とも語っていました。

 オウム真理教信者のこの「小さな箱の中で」「箱ひとつ分でしか世界を見ていない」という、小さな、ひとつの「箱」に『スプートニクの恋人』の「ミュウ」が閉じ込められた観覧車が対応しているのではないかと思うのです。

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 普通、観覧車で我々が乗り込むものはゴンドラとか呼んでいるかと思います。福井優子さんの『観覧車物語』という本には、我々が乗り込む部分は「客車」と呼ばれていたり、「キャビン」と書かれていたりします。でも『スプートニクの恋人』で「ミュウ」が乗り込み、閉じ込められる世界は、次のように書かれています。

 「観覧車の乗客は彼女一人しかいないようだった。目につく限り、どの箱にも乗客の姿はない」「彼女が赤い箱の中に乗り込んで、ベンチに腰を下ろすと」というふうに、一貫して「箱」という言葉で、閉じ込められた世界が記されているのです。

 オウム真理教信者が「小さな箱の中で」で「箱ひとつ分でしか世界奇妙に単一で平板なんです。あるところで広がりが止まってしまっている」世界を生きているように、「ミュウ」もまた同じように観覧車の「一つの箱」の中に入って「自分の分身」の姿を見ているのです。ここに、私は、オウム真理教信者による事件と、それを受けて書かれた『スプートニクの恋人』という長編の村上春樹の中での強い関係を感じています。

 『スプートニクの恋人』の「ミュウ」が、この小さな「箱」に閉じ込められる世界に、地下鉄サリン事件をはじめ、オウム真理教信者たちが起こしたことを受けて、考え、小説を書き続ける村上春樹の姿を強く感じるのです。

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 最後に一つ、二つ、加えておきたいのは、効率追求社会と、オウム真理教の一般の信者との関係です。私は村上春樹のようにオウム真理教の元信者を取材したことがありませんので、ここで記すことは、自分の考えにすぎませんが、効率性を追求したきた近代日本社会の中で、オウム真理教信者たちは、効率社会を享受できる側の人たちではなく、むしろ効率社会から弾かれてしまう、疎外されてしまう人たちなのではないかと思います。

 そのような、効率社会の中で苦しみ、効率性を追求するだけでいいのかということを考えた人たちなのではないかと思います。本来、効率社会に抗う人たちであるはずなのに、それが地下鉄サリン事件のような凶悪な事件につながっていってしまったのです。このことに、オウム真理教信者たちの起こした犯罪やその思考の姿のことを、さらに考え続けなくてはいけない理由が今もあるのではないかと、私は感じています。

 また、「ミュウ」も「自分の分身」の姿を見ることによって、音楽とは何かを知った人間であるということもできると思います。でも「ミュウ」は、そこから、音楽の道へ進んでいきませんでした。「知っている」ことと、「音楽の道」へ進んでいく人の違いは何か。そういう人間の在り方の違いを考えてみることも大切なことだと私は思っています。

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 さて「村上RADIO RUN&SONGS」のことにちょっとだけ戻ってみたいと思います。村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(1979年)には、土曜の午後7時から9時まで2時間放送される「ポップス・テレフォン・リクエスト」というラジオ番組が出てきて、「犬の漫才師」というDJが登場します。

 ビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」を、ある女の子がその番組にリクエストして、その曲を「僕」にプレゼントするという電話が「犬の漫才師」から「僕」にかかってきて、このことが物語が動かしていくわけですが、今回の村上春樹のDJには、このラジオ番組のことが当然意識されていたと思います。村上春樹のDJ番組にも、挿入曲にビーチ・ボーイズの「SURFIN' U.S.A.」もありました。

 その「村上RADIO RUN&SONGS」の最後の言葉は「では今日はここまで。また、そのうちにお目にかかれるといいですね。さようなら」でした。これって、またDJを村上春樹がやるかもしれないということでしょうか……。そんなこともラジオを聴きながら考えました。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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