「村上春樹を読む」(82)信じること、愛すること 「牛河」について・その2

『1Q84』(新潮文庫)

 7月6日、地下鉄サリン事件などオウム真理教による一連の事件で殺人などの罪に問われて死刑が確定していた松本智津夫死刑囚=教祖名麻原彰晃=ら7人の刑が、東京拘置所などで執行されました。そして本日26日、残る6人の死刑が執行され、一連の事件で死刑の判決を受けた13人の死刑が短期間の間に執行されました。

 1995年3月20日のオウム真理教信者による地下鉄サリン事件では13人が死亡、6千人以上が重軽症を負いましたし、それ以前の1989年11月4日の坂本堤弁護士一家殺害事件、1994年6月27日の松本サリン事件を加え、一連の凶悪事件の犯人たちです。

 死刑制度の是非については、私も記者として考える機会はこれまでにも何度かありました。その是非についてはここでは記しませんが、それでもいっぺんに7人と6人もの人間が死刑となると、人間の命の重みというものが伝わってきて気持ちがふさがれてしまいます。いまだ、この事件と宗教との関係は解明されることなく、すべての刑の確定後、非常に早く刑が執行されました。これによって、オウム真理教の教義とそれがどのようにしてこれらの大きな事件を引き起こしたのかということについては未解明の部分が多く、残りました。その解明に力を注ぐべきだったのではないかと思われます。

 今年、1月下旬、最高裁で、一連のオウム真理教信者による事件の裁判が終わりました。さらに地下鉄サリン事件から23年となる今年の3月20日の少し前の、3月14日、15日には、死刑囚13人のうち7人が東京拘置所から名古屋、大阪両拘置所など5カ所に移送し分散収容したこともニュースになりました。

 死刑執行のための分散収容ではないのか。そのような思いが強く迫って来るなか、オウム真理教信者による事件とは何かを考えながら、ここ半年間、この連載コラム「村上春樹を読む」を書いてきました。

 オウム真理教信者による地下鉄サリン事件の被害者たちへの村上春樹のインタビュー集『アンダーグラウンド』(1997年)やオウム真理教元信者たちへのインタビュー『約束された場所で』(1998年)などを読み返して書いてきましたし、「青豆」という女殺し屋が、カルト宗教集団のリーダーと対決する『1Q84』(2009年―2010年)のことも再読して書きました。「青豆」が対決して、殺害するカルト宗教集団のリーダーは、最初、オウム真理教の教祖、麻原彰晃を思わせるかのように登場する人物ですので、そこから「悪」の問題というものを考えてみたかったのです。

 前回だけは「文學界」7月号に村上春樹の久しぶりの短編「三つの短い話」が発表されたので、その3つの短編についてリアルタイムで考えたことを記しましたので、1回だけオウム真理教と村上春樹作品について書くことをお休みしましたが、前々回は『1Q84』に登場する牛河という人物の奇妙な魅力について書きました。今回の「村上春樹を読む」では、その回で書き切れなかった牛河について書き足してみたいと思います。

 牛河は『1Q84』の読者にとって、かなり驚く存在です。前にも紹介しましたが、『1Q84』はBOOK1、BOOK2は、女主人公「青豆」と男主人公「天吾」の視点が交互に進んでいきます。2つ話が交互に進んでいく物語は、村上春樹の読者にとって、馴染み深いものですが、BOOK3になると、物語の第3の視点人物として牛河が加わるのです。BOOK3を読み始めた読者が、エッと驚くのは、まずその点です。

 その次に読者が驚くのは、牛河があっけなく殺されてしまうことです。正直、読者は牛河のキャラクターに魅力を感じ出してきて“そんなに悪いやつでもなさそうじゃない……”と思い出したところで、あっさり殺されてしまうのです。「エッ、殺されてしまうの……!」と、最初に読んだ時に、私も思いました。牛河のキャラクターが魅力的かどうかの問題はあるかと思いますが、それはさておいても、何しろ牛河は視点人物で、その視点人物が殺されてしまったら、物語の語りの構造が崩れてしまうからです。

 気になって、目次を見たり、少しの先のページを覗いたりしました。すると、さらに先に牛河の章があるのです。まさか殺されたはずの牛河が生きかえったりするのでは……。そんな妄想を抱きながら、読んでいくと、牛河はしっかり殺されていました。

 でもまた、驚くことが『1Q84』では書かれているのです。こういうふうに読んでいくことは、著者である村上春樹の術中に嵌(は)まっているわけですが、でもこの作品の牛河については、そのように読んだ人も多いのではないかと思います。

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 牛河が殺される章の名は「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」ですが、死体となった後、次の牛河の章の名前は「そして彼の魂の一部は」です。

 山梨のある部屋の中央部に会議用のテーブルがいくつかつなぎ合わされ、死んだ牛河の身体がその上に仰向けに寝かされています。その日の昼間、部屋に何人かの人々が集まり、話し合いが持たれました。カルト宗教集団「さきがけ」の幹部たちが内密に集まり「牛河を殺害したのはいったい誰なのか?」「牛河が監視していたのは青豆ではないのか」などが話されたのです。そして「さきがけ」のグループにとっては「どのような危険に遭遇しても、どのような犠牲を払っても、我々は青豆という女を見つけて確保しなくてはならない。一刻も早く」ということが最も重要な使命なのです。

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 誰もいなくなった後の部屋には牛河の死体が残されているだけです。そして牛河の大きく開かれた口から「六人の小さな人々」が出てくるのです。背の高さはせいぜい5センチほどです。「リトル・ピープル」です。

 6人のリトル・ピープルは、自分の身体を必要に応じてサイズを変えることができて、やがて、60センチから70センチほどの背丈に達すると、テーブルから部屋の床に降りました。

 そして、6人は誰が合図するともなく、床の上に静かに腰を下ろし、やがて1人が無言のうちに手を伸ばして、空中からすっと1本の細かい糸をつまみ上げます。それを床の上に置きます。次の1人もまったく同じことをしました。あとの3人も同じです。

 でも最後の1人だけが違う行動を取りました。彼は牛河の頭に手を伸ばし、牛河の縮れた毛髪を1本ちぎったのです。それを糸代わりにしました。

 そして「五本の空中の糸と、一本の牛河の頭髪を、最初のリトル・ピープルが慣れた手でひとつに紡いだ」のです。「そのようにして六人のリトル・ピープルは新しい空気さなぎを作っていった」のです。そうやって「彼の魂の一部はこれから空気さなぎに変わろうとしていた」という言葉で、その章は終わっています。

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 リトル・ピープルというもの自体が、『1Q84』の中で、どういうものなのか、それを述べることがとても難しい存在です。そして、さらに牛河の口から、リトル・ピープルが出てきて、彼らが牛河の頭髪を交えながら、空気さなぎを作っていく……という行為が加わって、さらにリトル・ピープルへの関心も謎も深まるのです。

 なぜ、牛河は殺されたのか。なぜ、牛河の死体の口から、6人のリトル・ピープルが現れて、牛河の頭髪を交ぜながら、空気さなぎを織っていくのか……。そのことをどう受け取るべきか、正直難しいですね。

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 私の読みが、自分なりの安定を持って存在しているわけではないのですが、でもここ半年ほど、オウム真理教信者の犯罪と、それに関係して書いたと思われる村上春樹作品を読んできましたので、自分の考えの一端を示してみたいと思います。

 まず、どうして、牛河はこの曲を聴かないのだろうと思ったことがあります。あんなふうに殺されるとは思いませんでしたが、同じ視点人物の中で、青豆や天吾とは違うんだなと思いました。

 その曲はヤナーチェックの管弦楽作品『シンフォニエッタ』です。『1Q84』という長編は、女殺し屋である青豆が、高速道路を走るタクシーの中で、このヤナーチェック『シンフォニエッタ』を聴く場面から物語が始まっています。

 さらに『1Q84』のBOOK3ではリーダーを殺害した後、青豆は高円寺南口のマンションの一室に隠れ住んでいるわけですが、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が入ったカセットテープを手に入れなくてはと青豆は思います。「運動をするときに必要だ。あの音楽は私をどこかに――特定はできないどこかの場所に――結びつけている。何かへの導入の役目を果たしている」と思うのです。そしてヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を入手した青豆は、「一日に一度『シンフォニエッタ』を聴き、それに合わせて激しい無音の運動」をして過ごしているのです。

 天吾も『シンフォニエッタ』を演奏しています。小学校3年から卒業まで天吾の担任だった女教師に牛河が会いに行きます。すると女教師は高校生になった天吾と音楽会で再会したことを話します。彼女の証言によれば、天吾はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』のティンパニの演奏を上手にこなしています。「簡単な曲ではありません。天吾くんはその数週間前までその楽器に手を触れたこともなかったんです。しかし即席のティンパニの奏者として舞台に立ち、見事に役を果たしました。奇跡としか思えません」と牛河に、女教師は話しています。

 そして、牛河は高円寺で天吾の住むアパートの1階に張り込み用の部屋を確保するのですが、その契約前日、文京区小日向のマンションのユニットバスの狭い浴室の中で、シベリウスのヴァイオリン協奏曲がラジオのFM放送局から流れてくるのを聴いています。

 そのシベリウスのヴァイオリン協奏曲はおおよそ三十分ほどで終了。「次の曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』ですとアナウンサーは告げ」ます。

 そして「ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』という曲名にはどこかで聞き覚えがあった」「きっと風呂に長く入り過ぎたのだろう。牛河はあきらめてラジオのスイッチを切り、風呂を出ると、タオルを腰にまいただけのかっこうで冷蔵庫からビールを出した」と書かれています。

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 「ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』という曲名にはどこかで聞き覚えがあった」と牛河が思うのは、天吾の小学校の担任だった女教師が、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』のティンパニのパートを見事に演奏した天吾のことを牛河に話したからでしょう。それを忘れていることは、優秀な調査マンとしては、かなりの手抜かりです。

 ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』に対して「あの音楽は私をどこかに――特定はできないどこかの場所に――結びつけている。何かへの導入の役目を果たしている」と思っている青豆と、牛河の同曲に対する描かれ方にはかなりの差があります。これらの部分を読むと、同じ視点人物でも、作品の中での位置はずいぶん違っていることが分かります。牛河はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を聴かなかったから殺されてしまったといえるかもしれません。

 ちなみにヤナーチェックの『シンフォニエッタ』は1926年6月26日にプラハで初演されました。なお、『騎士団長殺し』(2017年)のタイトルにもなっているモーツァルトの『ドン・ジョバンニ』の初演もプラハです(1787年)。村上春樹はプラハ初演の音楽が好きなのですかね。

 ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』が生まれた1926年という年は、日本では大正が終わり、昭和という年が始まった年ですし、ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』はファンファーレで始まっていますので、物語の開幕であるとともに「昭和」という時代の開幕を告げる音楽として、『1Q84』の中にあるのかとも思います。そして「1984」年は昭和59年ですので、村上春樹が昭和の時代にこだわって書いた作品といえるかと思います。その物語の視点人物のうち、牛河だけがヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を聴かずにいるということには、昭和の歴史に対する認識のなさを示しているのかもしれません。

 でも牛河にはいいところがあります。その一つは組織、システムというものに対して、独立を保っているという点でしょう。彼は、所詮、金で雇われた何でも屋ですが、でも「システムから離れて自由に行動することができる」人間なのです。「彼らの身内でも仲間でもない、信仰心などかけらもない。教団にとって危険な存在となれば、あっさり排除されてしまうかもしれない」という人間でもあります。「システムから離れて自由に行動することができる」なんて、その部分だけ取り出せば、村上春樹の小説は、システムというものと闘う物語ですから、登場人物としては、かなり面白い人物です。

 一方で、牛河は「一流大学に入るために、そして司法試験に合格するために、死にものぐるいで勉強」をして「あらゆる現世的な楽しみを棄てて」「勉学に専念した」のです。これは、現世のシステムに沿った生き方でもあると思います。「劣等感と優越感の狭間で彼の精神は激しく揺れ動いた。俺は言うならばソーニャに出会えなかったラスコーリニコフのようなものだ、とよく思った」と村上春樹は書いています。システムというものについても、牛河は引き裂かれた人間のように存在しています。

 その牛河が殺されて、関係者が遺体の前から去った後、牛河の口から、リトル・ピープルが出てきた章のタイトルは「そして彼の魂の一部は」となっていますが、『1Q84』の中で牛河の「魂」について、触れた部分が出てきますので、その場面を紹介してみましょう。

 牛河は天吾のアパートの1階に部屋を借りて、カメラ越しに監視を続けているのですが、そうすると天吾の部屋から出てきた「ふかえり」がファインダー越しに逆に牛河の視線を覗き込みます。すると牛河は自分が深田絵里子(ふかえり)という少女に「全身を文字通り揺すぶられていることに気づいた」のです。「彼女の身じろぎひとつしない深く鋭い視線によって、身体のみならず牛河という存在そのものが根本から揺さぶられているのだ。まるで激しい恋に落ちた人のように。牛河がそんな感覚を持ったのは生まれて初めてのこと」です。

 そして、牛河は次のように考えています。

 「それはおそらく魂の問題なのだ。考え抜いた末に牛河はそのような結論に達した。ふかえりと彼のあいだに生まれたのは、言うなれば魂の交流だった。ほとんど信じがたいことだが、その美しい少女と牛河は、カモフラージュされた望遠レンズの両脚からそれぞれを凝視し合うことによって、互いの存在を深く暗いところで理解しあった。ほんの僅(わず)かな時間だが、彼とその少女とのあいだに魂の相互開示ともいうべきことがおこなわれたのだ」

 ここに牛河の「魂」という言葉が3回もあります。

 リトル・ピープルたちが「五本の空中の糸と、一本の牛河の頭髪を」ひとつに紡いで、空気さなぎを作っていきます。そして紹介したように「彼の魂の一部はこれから空気さなぎに変わろうとしていた」という言葉で、その章は終わっていますが、その「彼の魂の一部」とは、ふかえりとのあいだにうまれた魂の交流の部分なのでしょう。

 それは牛河に「今まで経験したことのない温もりを」もたらします。「牛河はそのことに気づいた」のです。

 彼の「妻も二人の娘も、芝生の庭のある中央林間の一軒家も、これほどの温かみを牛河に与えてくれることはなかった。彼の心には常に溶け残った凍土の塊のようなものがあった。彼はその堅く冷ややかな芯とともに人生を送ってきた」のです。

 でも「それを冷たいと感じることさえなかった。それが彼にとっての『常温』だったからだ。しかしどうやらふかえりの視線がその氷の芯を、一時的であるにせよ融かしてしまったらしい。それと同時に牛河は胸の奥に鈍い痛みを感じ始めた。その芯の冷たさがこれまで、そこにある痛みの感覚を鈍麻させていたのだろう」と牛河は感じています。

 「劣等感と優越感の狭間で彼の精神は激しく揺れ動いた。俺は言うならばソーニャに出会えなかったラスコーリニコフのようなものだ、とよく思った」と牛河は思っています。『罪と罰』のラスコーリニコフがソーニャの力で人間を回復していくように、ふかえりがソーニャのような力を持っているということでしょうか。

 牛河がタマルによって殺される直前、タマルの好きな言葉「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」という言葉を言われされます。

 そしてビニール袋で覆われて殺されてしまうのですが、牛河は「何故だ、と牛河はそのビニール袋の中で思った。知っているすべてを正直に語った。どうして今さら俺を殺さなくてはならないのだ」と思うのです。

 断末魔の最後、中央林間の一軒家で、二人の娘のことを考え、そこで飼っていた胴の長い小型犬のことを思うのです。「彼はその胴の長い小型犬をただの一度も好きになったことがなかったし、犬の方もただの一度も牛河を好きになったことがなかった。頭の悪い、よく鳴く犬だった」と思います。牛河が人生の最後に思い浮かべたのは、そのろくでもない犬だったのです。

 牛河は恋や温もりをまるで知らない人間ではありません。それは、ふかえりとの一瞬の視線の交換の場面を見ればわかります。でも、人や動物を愛する人間ではありませんでした。人を信じたり、涙したり、そういうことが人生の中にほとんどなかった人間です。温もりがあったのはふかえりとの交流だけのようです。

 これが、この『1Q84』で牛河が殺されてしまう原因かなと思います。「知っているすべてを正直に語った。どうして今さら俺を殺さなくてはならない」のは、人を愛し、信じ、時に涙を流すようなことがなかったからでしょう。

 前々回も紹介しましたが、青豆が対決して殺害したリーダーが話していた言葉を思い出す場面があります。

 「リトル・ピープルが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから」

 そうようにリーダーは語っていました。

 この言葉を受けて、続けて、青豆は、次ぎように思います。

 「神とリトル・ピープルは対立する存在なのか。それともひとつのものごとの違った側面なのか?

 青豆にはわからない。彼女にわかるのは、自分の中にいる小さなものがなんとしても護られなくてはならないということであり、そのためにはどこかで神を信じる必要があるということだ。あるいは自分が神を信じているという事実を認める必要があるということだ」と考えるのです。

 神とリトル・ピープルのことを考えて、そして、どこかで神を信じる必要があると思う。自分が神を信じているという事実を認める必要があると思うのです。この青豆の考えは、少しの飛躍を含んだ言葉ですね。

 私なりに受けとめたことをここに記せば「どこか神を信じる必要がある」とは「それは人を信じること」「人を深く愛すること」と置き換えていいのではないかと思います。「人を信じること」「人を深く愛すること」は、それは教団の中の教祖のような神ではなく、自分の中に大切な神を持つことでしょう。

『1Q84』の最後、青豆と天吾が「1Q84」の世界から脱出する直前に、青豆が天吾にこう言っています。

 「ねえ、私は一度あなたのために命を捨てようとしたの」と青豆が打ち明けます。「あと少しで本当に死ぬところだった。あと数ミリのところで。それを信じてくれる?」。それに対して「もちろん」と天吾が応えます。「心から信じるって言ってくれる?」「心から信じる」と天吾は言います。

 ここで、青豆は神について、語っているのだと思います。

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 『1Q84』の巻頭の献辞には『イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン』の冒頭の4行の「ここは見世物の世界/何から何までつくりもの/でも私を信じてくれたなら/すべてが本物になる」という歌詞が日本語と英文で記されています。

 『1Q84』のBOOK2の中で、リーダーは、その歌を口ずさみなから「1984年も1Q84年も原理的には同じ成り立ちのものだ。君が世界を信じなければ、またそこに愛がなければ、すべてはまがい物に過ぎない。どちらの世界にあっても、どのような世界にあっても、仮説と事実を隔てる線はおおかたの場合目には映らない。その線は心の目で見るしかない」と青豆にリーダーは語っています。つまり「信じる」ことと「愛」があれば、この『1Q84』の世界は「本物になる」とリーダーも言っているのです。

 オウム真理教も宗教です。その信者たちが起こした凶悪な事件によって、神を信じることへの疑念が深く、その後の社会を覆っていきました。でも人間にとって、そのような教団、教祖の神ではなく、自分の内側に何か信じるものが必要なのです。そのような意味での「神」を信じることの大切さを描いた『1Q84』だと思います。

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 最後に、リトル・ピープルたちが牛河の死体の頭髪を織り込みながら作る空気さなぎについてですが、それが善なるものになるのか、悪なるものになるのか、神と対立するものになるのか、それはわかりません。でも、ふかえりと牛河の一瞬の交流によって生まれた魂の一部が反映された空気さなぎであることは間違いないでしょう。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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