『その話は今日はやめておきましょう』井上荒野著 老いてもなお「成長」は続く

 なんてタイトルだろう。読み終えて、ため息をつく。「その話は今日はやめておきましょう」。多くの日々は、そして人間関係は、それでできているとさえ言えてしまう気がする。何らかの事情で疎遠になった人たちとの、疎遠になった過程を思い返すと、ずばり「今日はやめておく」の積み重ねであったように思えてならない。

 主人公は、アラウンド70の老夫婦である。クロスバイクを2台連ねて、ふたりで近所をサイクリングするのが楽しみである。ある日、夫が転倒して骨折をする。そして、かつて顔見知りだった自転車屋の元店員と再会する。夫婦は、夫のリハビリの付き添いや、家の掃除や庭の手入れなどをその青年に手伝わせるべく、1回5000円で彼を雇うことにする。

 青年が、実の子どもでもないのに、自分たちに良くしてくれることに夫婦は破顔する。こんな素敵な子に自分たちは出会うことができたのだと、そのめぐり合わせが誇らしくもある。彼を信頼しきって、どの部屋にも立ち入りを許し、掃除を任せて、ともにお茶を飲み、距離を近づけていく。ある日、相次いで、妻のアクセサリーと夫の腕時計が紛失する。

 青年の視点からも、物語が語られる。好きになった女から堕胎を告げられる。あまり関わりたくない男友達と再会する。そいつにけしかけられるまま、青年はひとつひとつ、老夫婦の貴金属類をポケットに入れる。「バレやしない」「金持ちなんだからこれくらい何てことない」「どうせボケ気味のじーさんとばーさんなんだから」と煽られながら。

 アクセサリーの紛失に気づいてからの、妻の心の流れが興味深い。まず、「そんなことはあるわけがない」と思う。次に、「もしかしたらそうかもしれないけど、夫に言うほどのことではない」と思う。やがて彼女は青年の犯行を確信していくけれど、自分ではそれを認めたくない。夫に相談しようとする。「何?」って聞かれる。その時点でもう話す気持ちは萎えている。

 これはどういう現象なのか。夫婦と同年輩の親を持つ身として思う。「オレオレ詐欺」とか「高齢者運転」とか、まさか自分が被るわけがないと信じている人ほど危ういのだと、どこかで読んだのを思い出す。「自分は大丈夫」と自分に言い聞かせながら、人ははっきりと老いていく。

 ラスト、夫婦は、徹底的に話し合う。目を背け続けた結果、起きてしまったことを、他人事にせずに話し合う。夫婦は、はっきりと成長する。そう、「老い」と「成長」は決して反比例しない。そのための手段を放棄してしまわない限り。

(毎日新聞出版 1600円+税)=小川志津子

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