『村上春樹を読む』(80)「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」 「牛河」について

『1Q84』BOOK3(新潮社)

 村上春樹の『1Q84』という大長編は、そのBOOK1、BOOK2が2009年に刊行され、BOOK3が翌年の2010年に刊行されました。

 BOOK2の最後では、女主人公の青豆が高速道路上で拳銃自殺して死ぬのか……という場面が話題となりました。あのまま青豆は死んでしまうのか。そうではないのか。こんな興味を抱いて、BOOK3を読み出すと、冒頭で読者は、それまでと違う物語の作り方に出合い、驚いてしまいます。

 BOOK1とBOOK2は、小学校のかつての同級生である青豆と天吾の視点で交互に語られて進んでいく物語でした。2つの物語が交互に進んでいく展開は、村上春樹の読者にとって、非常に馴染み深いものです。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)『ノルウェイの森』(1987年)『海辺のカフカ』(2002年)……。これらはみな2つの物語が交互に進んでいく小説です。そして、述べたように『1Q84』もBOOK1とBOOK2は、2つの視点で展開していくのですが、BOOK3では、3番目の視点人物として「牛河」が加わり、3つの視点で語られる物語となっているのです。

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 「牛河」という名前の人物は『1Q84』と時代設定が重なる『ねじまき鳥クロニクル』(1994年、95年)にも登場してきましたが、このBOOK3での牛河は、青豆を追跡したり、高円寺南口の天吾と同じアパートの一室を借りて、張り込みを続けていたりする人物です。

 牛河は、背が低く、頭が大きくていびつなかたちをした禿頭(はげあたま)、「福助頭」の人物。さらに脚は短く、キュウリのように曲がっていて、眼球は何かにびっくりしたみたいに外に飛び出し、首のまわりには異様にむっくりと肉がついているという……まことに醜い男です。

 牛河自身も「俺はたしかに時代遅れのみっともない中年男かもしれない」と思っているのですが、意外なことに、その牛河が、次第に魅力的に見えてくるのです。このBOOK3を繰り返し読むと、最も興味深い謎の人物は、この牛河ではないかと思うほど、次々に意外な展開があるのです。

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 『1Q84』という小説は、「1984」年の世界から、月が2つ見える『1Q84』の世界に、主人公の青豆と天吾が侵入して、BOOK3の最後に、その2人が『1Q84』の世界から脱出する物語です。

 そして、牛河が天吾を尾行していくと、天吾は高円寺南口にある児童公園に入っていって、滑り台にのぼって空を見ています。天吾が去った後、彼を追わずに、牛河も天吾が腰をおろしていた滑り台にのぼってみるのですが、すると普通の月と、もう1つ、苔が生えたような緑色の小さい月が見えるのです。

 「ここはいったいどういう世界なんだ」「俺はどのような仕組みの世界に入り込んでしまったのだ」と牛河は思いますし、「これはもともと俺のいた世界ではない」とも考えるのです。それは、まさに天吾と青豆がいる『1Q84』の世界です。

 ここまで読んで、読者は「えっ、牛河にも月が2つ見えるの!」と驚きます。でも、だからこそ、牛河がBOOK3の第3の視点人物に加えられたのか…と思うのです。

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 そして、さらに驚くことが、起きます。『1Q84』では、女殺し屋の青豆が、カルト宗教集団「さきがけ」のリーダーをホテル・オークラで殺害するのですが、牛河はその「さきがけ」から頼まれて、青豆らを追跡しているのです。牛河はかなりしつこいプロの追跡者ですが、牛河の調査、追跡によって、読者は青豆・天吾のことをより深く知っていきます。述べたようにだんだん、その醜い追跡者である牛河が、読者の前で輝きだしてくるのですが、この牛河が、あっさり殺されてしまうのです。

 牛河を殺すのは、タマルです。このタマルは青豆に、リーダー殺害を依頼した老婦人の助手のような男で、青豆の逃亡を助ける人物です。闇の側に属するプロで、「タマル」は忍者の「影丸」を思わせるような名づけですね。

 多くの人が同じような感想を抱いたようですが、私もここを読みながら「えっ、殺されちゃうの? 死んじゃうの!」と驚きました。だって、何しろ視点人物ですから。死んでしまったら、小説の視点が1つ消えてしまい、物語の構造が大きく変わってしまいます。

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 牛河が死ぬ場面については、この「村上春樹を読む」で以前に1度、「七夕神話」を通して、考えたことがありますが、でもこのところ、オウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件を通して、村上春樹作品を考え直すということを書いていますので、今回は、その点から、もう1度、牛河について、少し考えてみたいと思います。

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 牛河が殺されるのは、BOOK3の第25章「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」です。

 牛河は、天吾の部屋がある高円寺南口のアパートの別の一室を借りて、張り込みを続けていますが、気がつくと、手を背中で縛られていて、背後にいるタマルから「それほど簡単に死ねない」と言われるのです。1度ビニール袋をかぶせられて、窒息の寸前までいく苦しみを味わされ、なぜ、張り込みをしていたのかをタマルに話してしまいます。

 そして、ほぼ全部を聴いたタマルによって、殺されてしまうのですが、その死の間際に、タマルが「ところで、カール・ユングのことを知っているか?」と牛河に聞くのです。

 牛河も目隠しの下で思わず眉をひそめて「カール・ユング? この男はいったい何の話をしようとしているのだ」と思います。でも「心理学者のユング?」と答えると、タマルも「そのとおり」と言います。

 さらに牛河が「十九世紀末、スイス生まれ。フロイトの弟子だったがあとになって袂(たもと)を分かった。集合的無意識。知っているのはそれくらいだ」と加えます。牛河は元弁護士ですから、いろいろな知識の持主なんですね。

 牛河の答えに続けて、タマルは「カール・ユングはスイスのチューリッヒ湖畔の静かな高級住宅地に瀟洒(しょうしゃ)な家を持って、家族とともにそこで裕福な生活を送っていた」と話し始めるのです。

 カール・ユングについては『1Q84』で、ホテル・オークラの一室で殺されるカルト宗教集団のリーダーが、青豆に語っていました。そのことを前回の「村上春樹を読む」の「『リトル・ピープル』とは何か 必ず補償作用が生まれる」で紹介しました。

 青豆がリーダーを殺す直前に、カール・ユングを巡る話をしているのですから、このタマルが牛河を殺す直前に、カール・ユングの話をする場面は、青豆・リーダーの対決の場面ときっと対応したところでしょう。

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 カール・ユングは「一人きりになれる場所を必要としていた。そこで湖の端っこの方にあるボーリンゲンという辺鄙(へんぴ)な場所に、湖に面したささやかな土地を見つけ、そこに小さな家屋を建てた」とタマルは牛河に話します。

 「その建物は『塔』と呼ばれた」「完成を見るまでに約十二年を要した」「その家はまだ今でもチューリッヒ湖畔に建っている」 「話によればそのオリジナルの『塔』の入り口には、ユング自身の手によって文字を刻まれた石が、今でもはめ込まれているということだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』、それがこの石にユングが自ら刻んだ言葉だ」

 と話していくのです。実際にユングによって刻まれた言葉が「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」というものかについて、ここでは触れませんが、タマルは「俺はなぜかしら昔から、その言葉に強く惹かれるんだ。意味はよく理解できないが、理解できないなりに、その言葉はずいぶん深く俺の心に響く」と話しています。

 この章のタイトルが「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」ですが、その言葉を「悪いけど、ちょっと声に出して言ってみてくれないか?」とタマルは牛河に言わせるのです。牛河がよくわからないまま「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と小さな声で言います。タマルが「よく聞こえなかったな」と言うと、牛河が今度はできるだけはっきりとした声で言うのです。

 その後に、タマルによって、牛河は殺されてしまいます。

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 「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」。タマルが強く惹かれるというこの言葉は、どんな意味なのでしょうか。「神はここにいる」とは、どういう神がここにいるのでしょう。

 「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」と、タマルが牛河に話した後に牛河を殺害する、この場面と対応して書かれていると思われるのが、青豆がリーダーを殺す直前に、カール・ユングの話をする場面です。

 その場面は『1Q84』のBOOK2にあるのですが、リーダー殺害後、高円寺南口の隠れ家のマンションに潜む青豆が、そのリーダーとの会話を思いだす場面が、BOOK3の第14章「私のこの小さなもの」にあります。

 青豆は、その時、妊娠していて、「彼女はその小さなものと共に夜の児童公園の監視」を続けています。「一人で滑り台にのぼる若い男の大柄なシルエットを求め続ける。青豆は空に二つ並んだ初冬の月を見つめながら、毛糸の上から下腹部をそっと撫(な)でる。ときどきわけもなく涙が溢れこぼれた」と村上春樹は書いています。

 青豆は「証人会」という宗教の熱烈な信者の家庭に育ったのですが、11歳の時に信仰を捨てて両親と別れました。村上春樹作品の主人公が涙する時、泣く時には、何か重要な転換が記されていることが多いのですが、この場面もその1つだと、私は思います。

 青豆が「涙を拭うことなく、流れるままにして」おいたことなどが書かれた後、「あるとき冷たい風に吹かれて公園を監視しながら、青豆は自分が神を信じていることに気づく」のです。「唐突にその事実を発見する」のです。

 「まるで足の裏が柔らかな泥の底に固い地盤を見出すように。それは不可解な感覚であり、予想もしなかった認識だ。彼女は物心ついて以来、神なるものを憎み続けてきた。より正確に表現すれば、神と自分とのあいだに介在する人々やシステムを拒否してきた。長い歳月、そのような人々やシステムは彼女にとって神とおおむね同義だった。彼らを憎むことはそのまま神を憎むことでもあった」と村上春樹は記しています。

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 生まれ落ちたときから、彼らは青豆のまわりにいて、神の名の下に彼女を支配し、彼女に命令し、彼女を追い詰めたのです。彼らは神の名の下にすべての時間と自由を彼女から奪い、その心に重い枷(かせ)をはめました。彼らは神の優しさを説きましたが、それに倍して神の怒りと非寛容を説いたのです。

 そして青豆は11歳のときに意を決して、そんな世界から抜けだしました。

 では青豆が、あるとき「自分が神を信じていること」に気づいたという「神」は、その自分が11歳のときに意を決して抜けだしてきた世界の神と同じでしょうか? それについて、青豆は次のように考えています。

 「でもそれらは彼らの神様ではない。私の神様だ。それは私が自らの人生を犠牲にし、肉を切られ皮膚を剥(む)かれ、血を吸われ爪(つめ)をはがされ、時間と希望と思い出を簒奪(さんだつ)され、その結果身につけたものだ。姿かたちを持った神ではない。白い服も着ていないし、長い髭(ひげ)もはやしていない。その神は教義も持たず、経典も持たず、規範も持たない。報償もなければ処罰もない。何も与えず何も奪わない。昇るべき天国もなければ、落ちるべき地獄もない。熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる」

 そのような神だと、青豆は思うのです。最後の「熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる」は、タマルが牛河に言わせた「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」と同じ言葉ですね。

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 そして、「さきがけ」のリーダーがその死の直前に口にした言葉を、青豆は折りに触れて思いだします。

 「光があるところには影がなくてはならず、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。リトル・ピープルが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから」

 このように述べたリーダーの言葉を思い出すのです。前回の「村上春樹を読む」で記したように、これはリーダーがカール・ユングの言葉を引用しながら、語った言葉です。

 『1Q84』BOOK2の第13章「もしあなたの愛がなければ」の中で、青豆に殺される前、リーダーが「光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。カール・ユングはある本の中でこのようなことを語っている」と青豆に話していますし、

 紹介したように、それに続けて「リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ」と語っていたのです。

 そのことを青豆、思い出しているわけです。そして、青豆も「リトル・ピープル」について考えます。

 「神とリトル・ピープルは対立する存在なのか。それともひとつのものごとの違った側面なのか?

 青豆にはわからない。彼女にわかるのは、自分の中にいる小さなものがなんとしても護られなくてはならないということであり、そのためにはどこかで神を信じる必要があるということだ。あるいは自分が神を信じているという事実を認める必要があるということだ」と考えるのです。

 そして、それらを考えた後、「青豆は神について思いを巡らせる。神はかたちを持たず、同時にどんなかたちをもとることができる」と村上春樹は記しています。

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 タマルが牛河を殺害する前に言わせた言葉。「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」。タマルが「俺はなぜかしら昔から、その言葉に強く惹かれるんだ。意味はよく理解できないが、理解できないなりに、その言葉はずいぶん深く俺の心に響く」と語った言葉の意味は、タマル自身も「意味はよく理解できない」と言っていますので、その場面だけでは「神はここにいる」ということの「神」の意味がよくわかりませんし、「冷たくても、冷たくなくても」の意味もよくわかりません。

 でもタマルがカール・ユングのことを語った場面と、リーダーがカール・ユングのことを語った場面、さらにそのリーダーの言葉を青豆が思い出す場面とを響き合わせて読んでみれば、その「神」の意味することを受け取ることができると思います。そこで、青豆は「熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる」と考えているわけですから。

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 紹介したように、青豆は自分のお腹の中の「小さなものと共に夜の児童公園の監視」を続けていると、涙が溢れこぼれてきます。さらに「あるとき冷たい風に吹かれて公園を監視」していると、「青豆は自分が神を信じていることに気づく」という展開になっています。

 最初に『1Q84』BOOK3を読んだ時、「監視」という強い言葉が印象的でしたが、その「監視」の意味するところをうまく受け取ることができていなかったと思います。

 青豆がお腹の中の小さなものと共に滑り台を監視しているのは、小学校以来、求め続けている天吾が現れるのを見逃さないためですが、その「監視」を、牛河との響き合いの中で読んでみれば、牛河もまた天吾と同じアパートの一室を借りて、天吾が現れるかどうかを「監視」している人物です。牛河はその部屋で殺害されるわけです。

 青豆が児童公園の滑り台を見ることに、「監視」という言葉が使われているのは、牛河の行動や運命との対応で記されている言葉なのかもしれませんね。

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 オウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件の死刑囚たちの裁判が終わったことから、それに関連した村上春樹作品を読み直しながら、ここ何回かの「村上春樹を読む」を書いています。

 地下鉄サリン事件の後、衝撃の大きさから、それまで盛んだった超越的なもの、超越的な思考が否定されていきました。「神」について語ることも抑制されていきました。

 でも人間は合理性だけで生きていくことはできません。人が生きていくためには、どこか、何か信ずるものが必要だと思います。でも、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教信者のようになってはいけないのです。

 どうやったら、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教信者のようにはならずに、でも「神」というものを棄てずに、我々が生きられるのか。それはとても難しい問いですが、そのような思いを抱いて、書かれた作品が『1Q84』なのだと思います。

 そのことをよく示しているのがタマルの「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」であり、青豆の「熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる」なのだと思います。

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 今回も随分と長い「村上春樹を読む」になってしまいました。『1Q84』BOOK3の牛河については、牛河の死後にも、驚く展開が用意されています。それについては、次回の「村上春樹を読む」で、触れることができたらと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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