『村上春樹を読む』(79)「リトル・ピープル」とは何か 必ず補償作用が生まれる

『1Q84』BOOK1(新潮社)

 『1Q84』(2009年―2010年)に「リトル・ピープル」というものが繰り返し出てきます。この作品は10歳の小学生時代にたった1度だけ、手を握り合った青豆と天吾が、互いを忘れることなく求めて、20年後に再会し、結ばれるという物語です。

 ですから、主人公の青豆とは何か、天吾とは何かを考えることはもちろん大切なのですが、頻出する「リトル・ピープル」について考えることも、とても重要なことだと思っています。

 なぜなら、この大長編『1Q84』のタイトルはジョージ・オーウェルの『一九八四年』に対応して名づけられているのですが、その『1984年』には、スターリニズムを寓話化した独裁者「ビッグ・ブラザー」が登場、それに対応する形で『1Q84』には「リトル・ピープル」が出てくるからです。

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 『1Q84』では「ふかえり」という少女が語った物語を、天吾がリライトした『空気さなぎ』という小説の中に「リトル・ピープル」が出てきます。その「リトル・ピープル」は、自分の背丈を必要に応じて自由に変えられる存在です。最初は少女の小指くらいの大きさですが、その後、30センチぐらいとなり、そして60センチぐらいになります。このような「リトル・ピープル」は、常に集団として登場してきます。「リトル・ピープル」は日本語にすれば「小さな人たち」の意味ですので、これは背が高くない「倭人(わじん)(日本人)」のこととも受け取れます。卑弥呼が出てくる『魏志倭人伝』でも、日本は「侏儒国」、つまり「小さな人」の国として書かれているので、「リトル・ピープル」は、日本人のことを示しているのではないか…というような読みを、私はしたことがあります。

 また『1Q84』には、ワーグナー『ニーベルングの指環』と対応したことが何カ所か出てきます。ですから「リトル・ピープル」は『ニーベルングの指環』に出てくる地底に住む「ニーベルング族のこびと」との対応関係も考えられるのではないか…などの考えを述べたこともあります。

 そのような、自分の読みが、違っているということではないのです。それぞれに自分なりの根拠があってのことなのですが(もし興味がありましたら、私が書いた『村上春樹を読みつくす』=講談社現代新書=などをお読みください)でも、そのようにある種、飛躍を含んだ“深読み”ですと、どうしても、その読みから、こぼれ落ちてしまうものがあるのです。もう一度「リトル・ピープル」について、考えてみたいと思ってきました。

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 そして、オウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件の被害者らに村上春樹がインタビューした『アンダーグラウンド』(1997年)や元オウム真理教信者たちへの村上春樹のインタビュー集『約束された場所で』(1998年)を読み返すうちに、「リトル・ピープル」というものが、地下鉄サリン事件に接して、村上春樹が考えたこと(それまで村上春樹が考え続けてきたことでもあると思います)と対応している部分があるのではないか…。その点から、もう一度「リトル・ピープル」について、考えてみたいと思ったのです。

 もう少し具体的に、今回の「村上春樹を読む」で、『1Q84』の「リトル・ピープル」について書いてみたいと思ったきっかけの一つを、ここに記してみると、次のような言葉に『1Q84』で出合ったからです。

 (天吾と「ふかえり」の)「二人はウィルスに対する抗体のようなものを立ち上げたんだ。リトル・ピープルの作用をウィルスとするなら、彼らはそれに対する抗体をこしらえて、散布した。もちろんこれは一方の立場から見たアナロジーであって、リトル・ピープルの側からすれば、逆に二人がウィルスのキャリアであるということになる。ものごとはすべて合わせ鏡になっている」

 この言葉の中の「ものごとはすべて合わせ鏡になっている」という部分が、新しく、私に迫ってきたのです。端的に言って、「合わせ鏡」は『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』の用語ではないかと思います。

 『アンダーグラウンド』の巻末には「目じるしのない悪夢」という長い後書きのような文章が付されています。その中に「『こちら側』=一般市民の論理とシステムと、『あちら側』=オウム真理教の論理とシステムとは、一種の合わせ鏡的な像を共有していたのではないか」と記されています。

 『約束された場所で』の巻末には、臨床心理学者の河合隼雄さんと村上春樹の2つの対話が付されていますが、そのうちの「『悪』を抱えて生きる」という対話には「誰かが何かの拍子にその悪の蓋をぱっと開けちゃうと、自分の中にある悪なるものを、合わせ鏡のように見つめないわけにはいかない」という「悪」についての村上春樹の言葉があります。

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 この「合わせ鏡」とは『あちら側』にある悪というものと、同じような悪が『こちら側』、つまり自分の中にもあるということです。

 このように、村上春樹の文学の世界は、あらゆる人間に「悪」というものが切り離せない一部として存在するものだとの認識をもって、「善」と「悪」の関係が書かれているという視点から読んでみることが大切ではないかと私は思っていますが、この「リトル・ピープル」についても、ある一つの限られた読み方、自分の読みでいうと、「侏儒国」の人=「日本人」のことと読んだり、あるいは「ニーベルング族のこびと」と読んだりするだけでは、不十分なのではないかと思ったのです。

 なぜなら、村上春樹は『1Q84』の中で「リトル・ピープル」の姿を、そのように一面的には受け取れないように書いているからです。

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 「ふかえり」の育ての親である戎野先生が、オーウェルの『一九八四年』の「ビッグ・ブラザー」と『空気さなぎ』の「リトル・ピープル」との関係を天吾に語る「もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない」という章が『1Q84』BOOK1の後半にあります。

 オーウェルが『一九八四年』を書いた時代なら、その独裁者を指して「気をつけろ。あいつはビッグ・ブラザーだ!」と言うことができたのですが、現代という時代の問題は、より複雑で、問題の在りかが見えにくくなっています。そのような時代に、ビッグ・ブラザーの「かわりに、このリトル・ピープルなるものが登場していた。なかなか興味深い言葉の対比だと思わないか?」と、戎野先生は天吾に話しています。

 そして、さらにこう語るのです。「リトル・ピープルは目に見えない存在だ。それが善きものか悪しきものか、実体があるのかないのか、それすら我々にはわからない。しかしそいつは着実に我々の足元を掘り崩していくようだ」

 このように「ふかえり」の育ての親である戎野先生が天吾に語る「リトル・ピープル」は「目に見えない存在」なのです。

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 でも、その『1Q84』BOOK1の前半、天吾と「ふかえり」が最初に会って話している場面では、天吾が「ふかえり」に「『空気さなぎ』を何度も読みかえしているうちに、君の見ているものが僕にも見えるような気がしてきた」と語ります。

 それに対して「リトル・ピープルはほんとうにいる」と「ふかえり」が天吾に語っています。さらに「みようとおもえばあなたにもみえる」と「ふかえり」は言うのです。

 「ふかえり」の育ての親である戎野先生は、もちろん「ふかえり」の物語である『空気さなぎ』を読んでいますが、その戎野先生は「リトル・ピープルは目に見えない存在だ」と天吾に話し、『空気さなぎ』の作者である「ふかえり」は「リトル・ピープル」について「みようとおもえばあなたにもみえる」と天吾に言うのです。

 「リトル・ピープル」は「目に見えない」存在なのか、「あなたにもみえる」存在なのか。このように、反転する存在として、『1Q84』の中で「リトル・ピープル」は紹介されています。

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 そして、確かに「リトル・ピープル」には「不吉」な面があります。「つばさ」という少女が「リトル・ピープル」と青豆に向かって話します。青豆にとっては「リトル・ピープル」という言葉は初めて聞く言葉だったのでしょう。「ねえ、リトル・ピープルって誰のことなの?」と尋ねています。

 青豆にリーダーの殺害を依頼する老婦人も「つばさ」が「その言葉をこれまでに何度か口にしました」と青豆に言いますが、でも「リトル・ピープル。意味はわかりません」と言うのです。でも「つばさ」の「リトル・ピープルという言葉には不吉な響きが含まれていた」と感じる青豆は「そのリトル・ピープルが彼女の身体に害を与えたのでしょうか?」と老婦人に問うていますし、その「つばさ」には「レイプの痕跡」が認められるのです。そのレイプと「リトル・ピープル」が何かの関係を持っているのか…と読者に迫ってくる場面です。

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 でも、その一方で「ふかえり」が、天吾にカセットテープに録音した音声による手紙を残していく場面では「ふかえり」は、戎野先生と「リトル・ピープル」を比べながら、次のようなことを話しています。

 「センセイはおおきなちからとふかいちえをもっている。でもリトル・ピープルもそれにまけずふかいちえとおおきなちからをもっている。もりのなかではきをつけるように。だいじなものはもりのなかにありもりにはリトル・ピープルがいる。リトル・ピープルからガイをうけないでいるにはリトル・ピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる」

 つまり「ふかえり」は、「リトル・ピープル」は戎野先生に負けない知恵と力を持っていることを天吾に伝えているのです。さらに「ガイ」を与えることもあるので気をつけるように、とも言っているのです。リトル・ピープルとは、いったい、悪しきものなのでしょうか。善きものなのでしょうか。

 このような反転する価値をいくつも含みながら、進んでいく物語が『1Q84』なのです。

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 河合隼雄さんと村上春樹の対話「『悪』を抱えて生きる」の中に「誰かが何かの拍子にその悪の蓋をぱっと開けちゃうと、自分の中にある悪なるものを、合わせ鏡のように見つめないわけにはいかない」と村上春樹が語っていたことを紹介しました。そのことが、オウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件と、『1Q84』の中の「リトル・ピープル」について、もう一度、私が考えるきっかけの一つになりました。

 そして、その対話で、村上春樹は「悪というのは人間というシステムの切り離せない一部として存在するものだろうという印象を僕は持っているんです。それは独立したものでもないし、交換したり、それだけつぶしたりできるものでもない。というかそれは、場合によって悪になったり善になったりするものではないかという気さえするんです。つまりこっちから光を当てたらその影が悪になり、そっちから光を当てたらその影が善になるというような」とも語っていました。

 この「こっちから光を当てたらその影が悪になり、そっちから光を当てたらその影が善になるというような」な「悪」と「善」の話と対応して、書かれているのではないかと思われる部分が『1Q84』にあるので、そのことを、紹介したいと思います。

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 河合隼雄さんはスイスの精神医学者・心理学者で、独自の分析心理学を創始したカール・ユングの研究を紹介し、ユング派心理学を日本に定着させた人ですが、そのカール・ユングのことを、『1Q84』に登場するカルト宗教集団のリーダーが青豆に語るのです。

 まず「光があるところには影がなくてはならないし、影のあるところには光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない」と青豆に話した後、ユングの本の中の言葉として、リーダーは次のように語ります。

 「影は、我々人間が前向きな存在であるのと同じくらい、よこしまな存在である。我々が善良で優れた完璧な人間になろうと努めれば努めるほど、影は暗くよこしまで破壊的になろうとする意思を明確にしていく。人が自らの容量を超えて完全になろうとするとき、影は地獄に降りて悪魔となる。なぜならばこの自然界において、人が自分自身以上のものになることは、自分自身以下のものになるのと同じくらい罪深いことであるからだ」

 そう語った後、続けてリーダーは「リトル・ピープル」について、青豆にこのように語っています。

 「リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。その場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された」

 このように、リーダーが語るのです。ここで語られる「彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ」の部分は直前のユングの言葉を受けたものですが、それに続く「その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれる」とは何のことでしょうか。

 「わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になる」という部分は、例えば「つばさ」が「リトル・ピープル」の関与しているかもしれない力によって「レイプ」されたことに関係していることを述べているのかもしれません。

 でも「ほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった」というのは、どのようなことをリーダーが述べているのでしょう。その「反リトル・ピープル作用」ということについて、考えてみたいと思います。

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 「わたしの娘」とは「ふかえり」のことです。リーダーの名前は「深田保」、「ふかえり」の本名は「深田絵里子」です。ですから「わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった」のは、彼女が『空気さなぎ』という物語を生み出した、その力のことを「反リトル・ピープル作用」と、リーダーは話しているのでしょう。

 『空気さなぎ』という物語を生み出したことが、どうして「反リトル・ピープル作用」なのかというと、「ふかえり」は「空気さなぎ」の作り方を「リトル・ピープル」に教えてもらったからです。

 作中にも、そのように記されていますが、物語『空気さなぎ』に描かれた話は、実際に「ふかえり」に起きたことのようです。

 「空気さなぎを作って遊ばないか」と「リトル・ピープル」の1人が言います。「せっかくここまで出てきたんだから」と他の「リトル・ピープル」も言います。物語『空気さなぎ』の少女が「くうきさなぎ」と尋ねると、「空気の中から糸を取りだして、それですみかを作っていく。それをどんどん大きくしていくぞ」と「リトル・ピープル」の1人が言います。

 「わたしもてつだっていい」と少女が尋ねると、「言うまでもなく」と「リトル・ピープル」は言うのです。「空気の中から糸を取り出すのは、いったん慣れてしまえばそんなにむずかしいことではなかった」「空気の中にはいろんな糸が浮かんでいた」と少女は思うのです。

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 以上の話にも反映していますが、『1Q84』で「ふかえり」という少女が作り出した『空気さなぎ』という物語には、織物のイメージが強くあります。

 「ふかえり」が新人文学賞に応募してきた作品について、リライトを担当した天吾と担当編集者の小松が『空気さなぎ』の長所や弱点について話す場面があるのですが、その弱点として「だいたい題名からして、さなぎとまゆを混同しています」と天吾が話しています。まったく、その通りで、なぜ『空気まゆ』と命名しなかったと思うほど、『空気さなぎ』の物語は、「さなぎ」ではなく、「繭」に近いイメージで書かれています。

 「空気の中から糸を取りだして、それですみかを作っていく。それをどんどん大きくしていく」のですから。

 そして、この「空気の中から糸を取りだして、それですみかを作っていく。それをどんどん大きくしていく」ものとは、まさに「物語」の力のことでしょう。「ふかえり」と天吾が協力して作り出したものです。

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 「それが善きものか悪しきものか、実体があるのかないのか、それすら我々にはわからない。しかしそいつは着実に我々の足元を掘り崩していくようだ」と戎野先生は「リトル・ピープル」について語っていました。「リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない」とリーダーも語っていました。

 その「リトル・ピープル」を「善」なるものと読んでも、読みに不足な部分が出てきてしまいます。「リトル・ピープル」のことを「悪」なるものと読んでも、読みに不足な部分が出てきてしまうのです。そのような固定した読みでは、掴み得ないものが「リトル・ピープル」の中にあるのです。

 「小さき人たち、日本人」という読みや「ニーベルング族のこびと」と読むだけでは、何か、どこか足りない部分を自分が感じてしまうのは、そのように固定した読みだけでは、掴み得ないものが「リトル・ピープル」の中にあるからなのでしょう。

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 「センセイはおおきなちからとふかいちえをもっている。でもリトル・ピープルもそれにまけずふかいちえとおおきなちからをもっている」と「ふかえり」は語っていました。

 これまで述べてきたように「リトル・ピープル」は多くの反転を含んでいますが、でも大きく言うと、『1Q84』の中で、悪しき「リトル・ピープル」の力から、善き「リトル・ピープル」の力が導き出されているように読んでいくことができると思います。

 例えば「わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された」とリーダーが青豆に語っていましたが、リーダーは「均衡そのものが善なのだ」とも青豆に語っているからです。その「均衡そのものが善なのだ」は『1Q84』BOOK2の第11章のタイトルにもなっています。

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 ならば、悪しき「リトル・ピープル」の力から、どのようにして、善き「リトル・ピープル」の力が導き出され「均衡が維持」されるのでしょうか。

 それは、「善」と「悪」の反転を単純に繰り返していくような、いわば論理的な考え方のみでは行き着くことができない作業ではないかと思います。

 「空気の中から糸を取りだして、それですみかを作っていく。それをどんどん大きくしていく」こと。

 それは織物を編みあげるように、物語を大きく紡いでいく、「善」と「悪」をともに抱きながら、さらに大きな「善」をめざして物語っていく、その作業の中で実現していくことなのではないかと思います。まさに時間をかけた物語を通してでしかできない作業だと思います。

 自分の中にある「悪」(リトル・ピープル的なるもの。でもリトル・ピープルは、まだ善悪というものがろくに存在しなかった頃から、我々の中にあったものです)を深く認識して、そこを掘り下げながら物語を書いていくことが、「リトル・ピープル」的な力を「反リトル・ピープル作用」に時間をかけて転換していくことなのだということを、村上春樹は『1Q84』を通して語っているのではないでしょうか。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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