【特集】補助線を引いて見える恐ろしい光景 文科省の授業報告要請問題(5)

By 佐々木央

自主夜間中学「あつぎえんぴつの会」で教える前川喜平さん。笑顔がこぼれる

 教育基本法の改正がまさかこんな場面で効いてくるとは思わなかった。不明を恥じるしかない。そのことをざんげするために、少し時をさかのぼりたい。

 教育基本法は2006年に改正されたが、改正が現実味を帯びてきたのは2000年前後だった。これに対しては、戦前のような国家主義的な教育への回帰をもくろむ動きとして、警戒する声が強かった。当時、文科省詰めの記者だった私は、省内を回ってどう考えればいいのか取材していた。

 ある課長は楽観的だった。「『基本法』と呼ばれる他の法律と違って、教育基本法は個別の教育関係法令と切れている。だから変えてもあまり意味を持たないよ。それに時代に合わなくなっているところも確かにある」

 その課長は非常に有能とされ、後に事務次官になった。なかなか本音は漏らさなかったが、法解釈や実務のありようを明快に解説してくれるので、私はその点で彼を信頼していた。だから改正してもさして影響はないという話に、少なからず安心した。

■意図的に切られたリンク■

 その課長に取材した後で、前川喜平さんの席にも顔を出した。「教育基本法のことで」と問いかけると、開口一番、彼はこう言った。「僕は教育基本法が今の形であって良かったと思いますよ。なかったら今ごろどうなっていたか」。改正には明確に反対のようだった。

 私は聞きかじりの知識をぶつけた。「でも学校教育法などとはリンクしてませんよね。変わろうが変わるまいが、あまり影響はないんじゃないですか」。前川さんは首を振った。

 「教育基本法がなくてその場所が空白だったら、そこには容易に復古調の、古い共同体や国家を中心に置いた『何か』が座っていたに違いないですよ。今の基本法が先にそこを占めていたから、『何か』に取って代わられずに済んだ。その場所に、例えば国家教育法といったものが座っていたら、他の法令だって全然違っていたはずです。日本の教育は今のような形ではなかったかもしれない」

 そう言われて調べると、教育基本法はもともと他の教育法令と切れていたわけではなかった。例えば、このシリーズの3回目で言及した「地方教育行政の組織および運営に関する法律」(地教行法)は、1956年に教育委員会法を改正したという形式をとっている。今はなき教育委員会法1条は次のように宣言する。

 「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする」

 この条文の前段で掲げる「自覚」の内容は、旧教育基本法10条1項の文言をほぼそのまま引用している。つまり、かつての教育委員会法とそれによって組織された行政システムは、教育基本法の理想を実現するために存在した。だが、1956年の地教行法は第1条を無味乾燥な自己規定の文章に置き換えた。教育基本法とのリンクを意図的に切ったのだ。

 ■「不当な支配」残ったが…■

 教育基本法は2006年に改正されたが、10条の「不当な支配に服することなく」という文言は16条に移って生き延びた。今回の文科省の介入に対しては、この「不当な支配」に当たるということが、中心的な論点となっている。

 そこで改正前の10条1項と改正後の16条1項を比べてみたい。

 【旧10条1項】教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。

 【新16条1項】教育は、不当な支配に服することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担および相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

 「国民全体に対し直接に責任を負って…」が「法律の定めるところにより…」と変わっている。それは何を意味するのか。

 旧法の「国民全体に直接に責任を負って」とは、現場の教師や学校、教育委員会が子どもや保護者、地域の人たちに直接責任を持つという意味だろう。議会や首長に対して、あるいは文科省や首相・文科大臣に対して責任を負う(つまりは命令に従う)ことによって、間接的に国民に責任を負うのでない。

 逆に言えば、こうした権力を持つ人間や組織が教育内容について不当に口を出してはならないし、それをすれば前段の「不当な支配」に当たるということになる(その意味では国による一斉学力テストや教科書検定、日の丸・君が代の強制なども問題になる)。

 しかし、新法16条1項は「法律の定めるところにより…」とした。法律が認めていることなら介入も支配も合法と読める。文科省が今回の名古屋市長委への質問状について「地教行法に基づく調査であり適法」という強気の姿勢を堅持している根拠はここにあった。教育基本法の改正を軽視した私は、実に浅はかであった。

 ■撤回し謝罪しなくてならない■

 補助線を一本引けば、本質がくっきりと見えてくることがある。文科省の言うように、この行為が適法であるなら、彼らはいつでも、全国津々浦々の、あらゆる授業について、同様の調査をすることが可能になる。

 「その教師や招かれた大人に教える資格はあるのか」「前科前歴・背景は調べたのか」「何を教えたのか(録音を提出しなさい)」と。

 学校は子どもや教師、大人たちが自らを自由に表現して交流し、学んだり、遊んだりする場だ。その中で何かをつかみ、育っていく。そこに権力を持って監視し、自分たちが「善」と信じることを押しつけ、実践させようとする人が入り込んでくる。恐ろしい光景だと私は思う。

 今回の文科省の行為が適法であるはずがない。法文に戻ろう。基本法16条1項後段は「教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担および相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」と述べる。

 文科省の調査は「適切な役割分担」「相互の協力」「公正かつ適正」という要件全てに違背する。これを適法とし、前例とすることを許してはならない。

 文科省は直ちに調査の違法性を認め、再度の質問状を撤回し、「国民全体に直接に」謝罪しなければならない。(47NEWS編集部、共同通信編集委員・佐々木央)=終わり

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