『村上春樹を読む』(78)「悪」を抱えて生きる 新しい方向からやってきた言葉

『約束された場所で』(文春文庫)

 こんなことが、みなさんにはありませんか? ある人が一方的に話しています。その人は「悪」を告発し、その「悪」の力に反対しています。言っていることは、まことに正しいのですが、でもなぜか、心に深くは伝わってこないのです。

 それを発言している人の最終的な考えと、自分の意見とは、それほど距離のあるものではないかもしれません。でも、なぜか伝わってこないのです。正しいことだけを言っている人の言葉が…なぜか伝わってこないのです。正しいのに、伝わってこないのです。複雑ですね。

 今回の「村上春樹を読む」では、この「正しいことだけを言う人の言葉は、なぜか伝わらない」ということについて、村上春樹の作品を通して、考えてみたいと思います。

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 『1Q84』(2009年―2010年)は全3巻の大作ですが、その中心となるのは、女主人公「青豆」とカルト宗教集団のリーダーの対決の場面です。「青豆」がリーダーとホテルの一室で対決して、殺害する場面です。

 この対決場面は『1Q84』のBOOK2の第7章から始まって、9章、11章、13章、15章と計5章にもわたっています。ボリューム的にもたいへんな量ですが、この場面に初めて接した時、息を呑んで2人の対決を読み進めていたことが忘れられません。深く、自分の中に、対決する2人の姿が伝わってきたのです。

 読者は主人公を通して作品を読んでいるので、あまりそのようには感じませんが、「青豆」は女殺し屋で、数人の人間を殺している犯罪者です。

 物語の冒頭、東京・渋谷の中級のシティー・ホテルで「深山(みやま)」という40歳前後の男を殺害しています。「深山」はゴルフクラブで妻を殴って肋骨を数本折ってしまったことにも、それほど痛痒を感じない男です。そういう男を殺す仕事です。

 これは1984年4月のことだと同作にあります。『1Q84』という作品は、その1984年から「いくつかの変更を加えられた1Q84年という世界」に「青豆」たちが入って行く物語です。その「1Q84年という世界」で「青豆」が、カルト宗教団体のリーダーと対決して、リーダーを殺害しています。

 つまり「青豆」は「1984年」でも殺人を行っていますが、「1Q84年」の世界でも、人を殺しています。別な言葉で言えば、「悪」と言ってもいいですね。そして「1Q84年」の世界で「青豆」が対決するリーダーは、オウム真理教の教祖、麻原彰晃を思わせるかのような人物ですので、読者の前に「悪」の様相を持って、登場してきています。

 つまり『1Q84』BOOK2で5章にもわたって描かれる、女主人公「青豆」とカルト宗教集団のリーダーの対決の場面は「悪」と「悪」の対決だとも言えると思います。

 でも、その「悪」と「悪」の対決の場面は、我々に深く届くのです。正しい意見を述べる人間の言葉は届かず、「悪」と「悪」の対決の場面で語られる言葉は深く、我々に届くのです。現実の中の人の言葉と、物語の中の人物の言葉ですから、同列に論じてはいけないかもしれませんが、私は、このことが不思議に感じられるのです。ここには、いったいどんな問題が横たわっているのでしょうか。

 私が、このような問題を考え出したのは、オウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件の被害者ら62人へ、村上春樹がインタビューした『アンダーグラウンド』(1997年3月20日)を読んだころからです。

 『アンダーグラウンド』の巻末には「目じるしのない悪夢」という長い文章が付いていますが、そこには、地下鉄サリン事件の後、各種マスコミに地下鉄サリン事件関係、オウム真理教関係のニュースが氾濫していたことが書かれています。「でも私の知りたいことは、そこには見あたらなかった」そうです。

 「余計な装飾物さえ取り払ってしまえば、マスメディアの依って立つ原理の構造はかなりシンプルなものだったと言える。彼らにとって地下鉄サリン事件とは要するに、正義と悪、正気と狂気、健常と奇形の、明白な対立だった」し、「人々はこの異様な事件にショックを受け、口々に言う、『なんという馬鹿なことをこいつらはしでかしたんだ。こんな狂気が大手を振って歩いているなんて、日本はいったいどうなってしまったんだ。警察は何をやっている。麻原彰晃は何があっても死刑だ』」というものでした。

 『アンダーグラウンド』は地下鉄サリン事件から、2年後の1997年3月20日に刊行されていますが、「こうした大きなコンセンサスの流れの果てに、事件発生以来二年の歳月を経て、『正気』の『こちら側』の私たちは、大きな乗合馬車に揺られていったいどのような場所にたどり着いたのだろう? 私たちはあの衝撃的な事件からどのようなことを学びとり、どのような教訓を得たのだろう?」と村上春樹は書いています。

 さらに、ひとつだけたしかなこととして、次のように記しているのです。

 「ちょっと不思議な『居心地の悪さ、後味の悪さ』があとに残ったということだ。私たちは首をひねる。それはいったいどこからやってきたのだろう、と。そして私たちの多くはその『居心地の悪さ、後味の悪さ』を忘れるために、あの事件そのものを過去という長持ちの中にしまい込みにかかっているように見える」と。

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 もう少し、『アンダーグラウンド』の「目じるしのない悪夢」から、村上春樹の言葉を紹介してみましょう。

 「私たちがこの不幸な事件から真に何かを学びとろうとするなら、そこで起こったことをもう一度別な角度から、別なやり方で、しっかりと洗いなおさなくてはいけない時期にきているのではないだろうか。『オウムは悪だ』というのはた易いだろう。また『悪と正気とは別だ』というのも論理自体としてはた易いだろう。しかしどれだけそれらの論が正面からぶつかりあっても、それによって<乗合馬車的コンセンサス>の呪縛を解くのはおそらくむずかしいのではないか」

 こんな言葉を記した後、次のように村上春樹は書いています。

 「私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別な物語)なのだ―ということになるかもしれない」

 この言葉の延長線上に『1Q84』という作品もあるのでしょう。村上春樹の意志の長い長い持続力を感じますね。

 さて、最初に記した、「悪」と「悪」の対決は、深く伝わってくるのに、正しいだけの主張はなぜか伝わらないという問題に戻りましょう。

 村上春樹は、オウム真理教の元信者たちにインタビューした『約束された場所で』(1998年)を『アンダーグラウンド』の翌年に刊行しています。

 この『約束された場所で』には、村上春樹と親しかった臨床心理学者の河合隼雄さんとの2つの対話が収録されています。そのうちの「『悪』を抱えて生きる」という対話の中で、河合隼雄さんが「オウムの人のやっていることが小説家のやっていることに似ている部分があるというふうに書かれていましたね。また同時に違った部分があると。それはとても面白く思ったんですが」と述べています。

 その対話の中で村上春樹が書いた言葉も引用、紹介されていて、そこには「小説家が小説を書くという行為と、彼らが宗教を希求するという行為とのあいだには、打ち消すことのできない共通点のようなものが存在しているのだという事実を、私はひしひしと感じないわけにはいかなかった。そこにはものすごく似たものがある」とあります。

 河合隼雄さんが言及しているのは、この部分のことです。

 でもさらに加えて、村上春樹は「とはいっても、その二つの営為をまったく同根であると定義することはできないだろう。というのは、そこには相似性と同時に、何かしら決定的な相違点も存在しているからだ」と書いています。

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 小説家が小説を書くという行為と、彼らが宗教を希求するという行為がどのように似て、どのように決定的に相違しているのでしょうか。

 似ている点は「意識の焦点をあわせて、自分の存在の奥底のような部分に降りていく」というところです。相違している点は「そのような作業において、どこまで自分が主体的に最終的責任を引き受けるか、というところ」です。「僕らは作品というかたちで自分一人でそれを引き受けるか、引き受けざるを得ないし、彼らは結局それをグルや教義に委ねてしまう」。そこが「決定的な差異」だと、河合隼雄さんとの対話の中で、村上春樹は語っています。

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 そして、この対話の名前が「『悪』を抱えて生きる」となっているように、「悪」についての話が2人の中で深まっていきます。

 河合隼雄さんが「これからはもうちょっと人間も賢くなって、どんな組織にせよ家庭にせよ、ある程度の悪をどのように抱えていくかということについて、もうちょっと真剣に考えたほうがいいと思いますね」と語っていますし、この言葉を受けて、村上春樹は次のように語っています。

 「僕はオウム真理教の一連の事件にしても、あるいは神戸の少年Aの事件にしても、社会がそれに対して見せたある種の怒りの中に、なにか異常なものを感じないわけにはいかないんです。それで僕は思ったんですが、人間というのは自分というシステムの中に常に悪の部分みたいなのを抱えて生きているわけですよね」

 「『悪』を抱えて生きる」という対話の題名は、河合隼雄さんと村上春樹のこれらの言葉から名づけられたものかと思いますが、村上春樹の発言に河合隼雄さんは「そのとおりです」と同意しています。

 さらに、村上春樹は「誰かが何かの拍子にその悪の蓋をぱっと開けちゃうと、自分の中にある悪なるものを、合わせ鏡のように見つめないわけにはいかない。だからこそ世間の人はあんなに無茶苦茶な怒り方をしたんじゃないかという気がしたんです」と述べていますし、「悪」について、次のように語っています。

 「悪というのは人間というシステムの切り離せない一部として存在するものだろうという印象を僕は持っているんです。それは独立したものでもないし、交換したり、それだけつぶしりたりできるものでもない。というかそれは、場合によって悪になったり善になったりするものではないかという気さえするんです。つまりこっちから光を当てたらその影が悪になり、そっちから光を当てたらその影が善になるというような」と語っています。

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 この「村上春樹を読む」でも何回か紹介していますが、『1Q84』の「青豆」とリーダーが対決する場面で、リーダーが「青豆」に次のような言葉を話していました。

 「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪のバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ」

 リーダーが「青豆」に話す言葉と、「『悪』を抱えて生きる」という対話で、村上春樹が河合隼雄さんに語った「悪」についての言葉が響き合っているように感じます。

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 このように、村上春樹の文学の世界は、あらゆる人間に「悪」というものが切り離せない一部として存在するものだという認識をもって書かれているという視点から、読んでみることが大切ではないかと思います。

 そして、最初に私が記したこと。正しいことだけを言う人の言葉が、なぜか伝わってこないということに戻ってみましょう。それは、その人が自分の中に「悪」を抱えて生きているということを認識していないところから発せられている言葉だからなのかもしれません。

 つまり「悪」と「悪」の対決だから、我々に深く伝わってくるというのではないのですね。あらゆる人間に「悪」というものが切り離せない一部として存在するものだという認識をもって、村上春樹が作品を書いているからなんですね。その自覚が反映した人物たちの対話だから、読者に伝わってくるということなのでしょう。

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13人が死亡、6千人以上が重軽症を負った地下鉄サリン事件から、今年の3月20日で23年。3月14~15日には、死刑囚13人のうち7人を東京拘置所から名古屋、大阪両拘置所など5カ所に移送し分散収容したこともニュースになりました。

 村上春樹は「私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別な物語)なのだ―ということになるかもしれない」と書きました。

 麻原彰晃のような巨大な悪に対して、どのように抗する「新しい物語」が、村上春樹によって書かれているのでしょう。『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』を読みながら、次回は『1Q84』に登場した「リトル・ピープル」というものについて考えてみたいと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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